梅いち凛 ~咲いた津田塾生~

plum gardenから編集の道へ - 初代編集長 松尾 奈々絵さん


2014年12月に発足したplum garden編集部。英文学科の松尾奈々絵さんは、最初の編集部員募集に応えて集まった60人あまりの学生の中で、「リーダー」の一人として活躍しました。2015年4月より初代「編集長」に就任し、そこから学生生活最後の一年間、編集部の発展に大きく貢献してくれました。学生を中心に構成される編集部が、毎週欠かさず記事をリリースするためには、縁の下の力持ちとしての編集長の働きが不可欠でした。今回の「梅いち凛」では、この3月に英文学科を卒業した松尾編集長にお話を伺います。


- そもそも、どのようなきっかけでplum garden編集部に参加することになったのですか?

「学内に貼りだされていた編集部員募集説明会のポスターに友人が興味を持って、私はそれについて行きました。その時私は4年生で、翌年は就職留年することを決めていました。そこで、残り1年の学生生活をどう過ごそうか、考えていたところでした。なにかがやりたかったのですが、5年生が新しく入れるサークルや団体はそんなにありません。plum garden編集部はその例外でした。5年生の1年間、必要な単位はすでにほぼ取りきっていましたが、plum gardenに関わることで大学により関わっていたいという気持ちを持っていましたね。」


 

誰も手を挙げていないと挙げたくなる


ー 松尾さんは、2014年度後期にplum gardenに参加して以来、リーダー/編集長として活躍してきました。

「実は、特に『リーダーがやりたい!』と息巻いていたわけではないんです。私は誰も手を挙げていないと、手を挙げたくなる性格なんですね。例えば、大教室の授業で先生が『何か質問はありますか?』と言った時に、誰も手が挙がらないと、先生がとても寂しそうで。そういうときに、つい手を挙げてしまうんです。同じように、最初の編集部の会議でリーダーを決める時も、ぱっと周りを見渡しても誰も立候補がいなかったので、その瞬間に手を挙げてしまいました。手が挙っていないところで手を挙げるのがすごく楽しかったんですね。おそらく私がこのなかで一番上の学年になってしまうだろうし、こういう私が編集長をやるものありかなと思ったんです。」

手探りだった初期の編集部


ー 現在のplum garden編集部では校閲局、写真局、広報局と3つのチームに分かれて活動していますが、できたばかりの頃は、まだ体制や記事作成の手順があいまいだったため、手探りで奔走する日々でした。


「初期のplum gardenでは編集部員が60人ほどおり、それを2つのグループにわけ、私は片方のグループのリーダーをやっていました。けれども、2つのグループは活動する曜日が違ったため、どちらのグループもお互いに向こうのグループが何をしているのか分かりませんでした。」

「そのときはまだどうやって記事を作っていくのかもあやふやでした。原稿の校閲をするにも、校閲の基準も分からない。記事を編集してウェブに上げることもはじめて。全くの手探り状態で、体制を整えるどころではありませんでした。本当に毎週『○○の記事をリリースしなければ!』と奔走していた気がします。進行していた記事が、急に没になってしまうこともあったので、焦ることもしばしばありました。」

ー 初期のplum gardenは、記事制作の技術を勉強していく期間だったと振り返る松尾さん。試行錯誤の末、現在の組織体系に至りますが、その成果は記事にも表れていると言います。

「読み返してみるとわかりますが、初期のplum gardenの記事は、今よりも文章量が少なかったですね。ライターの経験値がない状態だったので、がっちりと取材をする記事はまだできませんでした。加えて、初期の取材記事は、修正を重ね、何回もライターに差し戻しをしていました。今よりもずっとに効率が悪く、ライターにとっても精神的に疲れる作業だったと思います。」

「その頃は記事の企画書に大学の許可が降りず、キャンセルになることもありました。大学の公式広報として発信できるか、というボーダーラインがはっきりとわからず、記事内容の線引きにあたふたしていました。今の編集部には、そのような線引きの感度はついてきたと思います。」


 

大学で梅を収穫するという非日常

『梅シロップ』の記事。文章からライターの松尾さんの興奮具合が伺えます。


—松尾さんが担当した記事のなかで一番思い出に残っているのは、2015年夏の『つだラボ #5 梅シロップをつくろう』だそうです。
 
「編集部員皆で梅を収穫しているということ自体に非日常感がありました。そもそも、大学に梅林があることも、5年生になって初めて知りましたし(笑)。だから、そんな梅の収穫体験が面白く、収穫作業に「サークルっぽさ」を覚えました。それまで私はサークル活動はあまりやっておらず、大学で団体活動をしたこともありませんでした。しかし、この梅林で後輩と一緒に作業に勤しんだことは、私にとって『サークル体験』みたいなものでした。そして、梅の収穫を通して自分が体験したことをどう記事にして伝えるかが問題でした。最初に私が書いた原稿には、収穫作業を体験していないひとにとって、分かりにくい箇所がたくさんありました。それに気づくことができた、という点が面白かったと思います。」
 
「また、『作業をするのできてください』と部員に漠然と声をかけるだけでは、ひとは集まらないとわかりました。そうではなくて、ちゃんと手順をたてて、『こういうことをやるから、こうしてください』と、明確に指示を出さないといけないんです。ひとを動かすにはどうすればいいのか、ということが学べたよい機会だったと思います。」

 

気づきをもたらす記事が面白い


ー これまでのplum gardenの記事では、松尾さんは『津田塾探訪 #2 – 津田梅子墓所』がお気に入りだそうです。

「津田梅子墓所って、実はこれまであまりそれについて真剣に考えたことがなかったんですね。『一回だけお墓参りへ行くと、一生結婚できないらしいよ』という伝説を耳にするぐらいで。この記事も、最初のきっかけはその出所不明な伝説でした。しかし、担当した学生編集部員が、墓所の歴史をしっかり取材して記事にしたことで、その記事を読んだ私は真面目に梅子先生のことを考えましたし、実際にお墓にも行ってみました。『私が知らないだけで、津田塾には面白いものがあるんだな』と思いました。こんな風に新しいモノの見方を教えてくれると記事が面白いですね。」
 

編集部の「都合のよい存在」に


ー 編集長として精力的に活動していた松尾さん。けれども、記事のバックナンバーを見渡しても、松尾さんの署名「ばしょう」が入った記事はさほど多くありません。どうしてでしょうか。

「私自身は記事を書くより、編集部で記事を発信していく上で『都合のいい状態』でいようと思っていました。例えば、取材カメラマンが誰も日程が合わないときに、私が出向いたりと、毎週記事を出していく上で必要なサポートを提供できるようにしていました。昨年のオープンキャンパスの写真撮影では、高校生対象のキャンパスツアーの後ろについてまわりましたし、塾祭でもカメラを持っていろんな展示を回りました。」

「結果として、自分自身で記事を書くことはそんなにしていないですね。『私はこういうのがやりたい』と企画を提案するよりも、編集部の中で立ち上がった企画には、積極的に関わるように心がけていました。」

 

これからのplum gardenに期待すること


ー 今春からは、インターネットで記事を配信する編集プロダクションに就職予定の松尾さん。編集部に入っていなければ、就職先も違っただろうと言います。

「plum gardenをやってるうちに楽しくなってしまって。ウェブやパソコンもそれほど使いこなせてはいませんでしたが、ウェブマガジンの面白さに気付けたのは、まさに編集部での活動でした。編集部員が全員、私のように編集やライターの道に進むわけではありませんが、今後どこかしらでここで得たことが役立って欲しいです。『取材依頼のメールを送った経験があるから、苦手意識なくメールのやり取りができる』とか、『文章を書くことは得意でなかったけれど、今では大丈夫』とか。そんな何かしらのスキルアップの場として、この編集部があってほしいと思います。」

「卒業した後に大学の様子を知る手段は、あまりないですよね。『あの先生元気かな』とか、『毎年恒例のクリスマスツリー、今年もまだ点灯しているのかな』とか、そういうことを知る手段として、plum gardenは役立つと思います。例えば、学生時代にとてもお世話になった先生がウェブマガジンの記事になって、それを読むことができたら嬉しいですよね。学生目線で津田塾の面白さ、津田塾らしさをこれからもplum gardenに発信していってほしいです。」

 


plum garden編集部を経て、これからは編集のプロとして活躍する松尾さん。松尾さんの書いた記事が配信されるのを楽しみにしています。編集長お疲れさまでした。