人生と学び

好きなこと、気になることを丁寧に 林さと子先生

津田塾大学の日本語教員養成課程は外国人等、日本語を母語としない人に日本語を教える教員を養成することを目的としています。今回、お話をお聞きした林さと子先生は、1990年の開設以来、津田塾の日本語教員養成課程に深く関わってこられました。いつもニコニコと明るく朗らかなお姿は、たとえ言語が違う人でもすぐに心を開いてしまうような、そんな親しみやすさを感じさせてくれます。先生はどのようにして、日本語教育に出会われたのか、また多言語・多文化化が進む日本社会で、学生が大事にすべきことを日本語教育の視点からお話していただきました。


「好き」が結んだ巡り合わせの人生

—林先生が、この道を目ざしたきっかけは何だったのでしょうか。

「実は、最初から日本語教育の道に進もうという考えがあったわけではないんです。まず、津田塾大学を卒業してすぐに、銀行に就職したんですね。だけど、ちょっとしたうちの事情で、福岡の実家に戻ったんです。自分にとってはかなり大きな決断でした。あの時、東京に残っていれば……。と考えて、くすぶっていた日々もありましたね。」 

「そんな時に福岡YMCA(世界規模の国際青少年団体。福岡YMCAの発足は1947年。以来、生涯学習やボランティア活動など多様な活動を行なっている)に出会ったんです。当時、YMCAで使われていた英語の教科書が、私が学生時代に家庭教師のアルバイトで使っていた教科書と同じだったんですね。『絵で見る英語』という特徴的なテキストで、本当にすごい偶然でした(笑)。これは!と思いすぐ応募しました。」

「YMCAでは、最初、小・中学生の英語クラスを担当していました。子どもたちに“here”と“there”の違いを教える時に、空間感覚を伝えるために窓に本物のスプーンを貼り付けて説明したりしていました(笑)。そのうちに、YMCAで働く外国人の先生から、『自分たちも日本人学生のことばが分かるようになりたい!』と言われるようになりました。そこで、先生たちに日本語をプライベートで教えはじめたのです。相手も先生なので、容赦なく要求してくるんです。たくさん例文を示してとか、この部分を録音してくださいとか。こんなテストを作ってくださいというのもありました(笑)。だからこちらも一生懸命でしたよ。そんな日々を過ごす中で、日本語を教えることにも興味が湧いてきて……。それと同時にこれはもっと勉強しなきゃまずいぞ。と、強く感じて、国立国語研究所の長期専門研修を受けました。研修が終わろうとしていた頃、ウィーン大学への日本語講師の話があったので、いい機会だと思って行くことを決断しました。」
 

—日本を離れて、はるばるウィーンへ。どんな生活を過ごされたのでしょうか。

「約2年間、ウィーンにいたのですが、本当に色々なことがありました。まず、ヤパノロギー(日本学)のクラスでは、様々な文化的背景を抱えた学生と出会いました。1984年頃の当時は、まだ東西(東側・西側)という区分が存在して、ウィーンは西ヨーロッパの中では、最も東に位置していると言われていました。トルコ人の学生の1人は、ドイツ語もハンディーがあるし、日本語のクラスにきたら、英語も媒介語として使うから英語も分からなきゃいけないと、いつも大変そうでした。だけど、勉強の苦労を乗り越えて、今ではトルコで日本語や日本文化を広める活動をしています。他に、印象に残っている学生は、日本語のクラスに参加していた、心理学者で80歳くらいのおばあちゃん。日本に来た時に、横断歩道の音響信号に『通りゃんせ』のメロディーが入っていたことに感動して、日本語を学びたいと思ったようで……。彼女もまた、若い学生に混じって一生懸命勉強していました。」
「他にも、国際結婚の子ども対象のクラスでも日本語を教えていました。日本に行った時、おじいちゃん・おばあちゃんと簡単な日本語で会話できることを目標としたクラスで、週末だけ一緒に日本語を楽しく勉強しました。日本の歌を歌ったり、フェスティバルでは日本語の劇を発表したり……。YMCAでの経験が、ここで非常に生かされたなあと今でも感じています。」

チロル地方を訪れた時の様子。衣装は友達から借りたものだとか。キュートな笑顔が今と全く変わりません……!

—先生はウィーンに行くきっかけの1つが音楽であったと言います。

「ウィーンは音楽の街。私は、津田塾の時も女声合唱団に所属していたくらい、元々コーラスが大好きで、ウィーンに行ってからは仕事終わりにオペラをよく観に行きました。本場のため、歌うことはさすがに遠慮して、観る専門でした(笑)。トータルで50本くらい観たかな。日本ではすごく高いけれど本場だから安く済みますし、格安で観られる秘訣があったんです。それは、天井桟敷での観賞。華やかなフロアを背にして、裏階段を登っていくと天井桟敷があって、そこでは、音楽大学の人がスコアを広げてオペラを観ていました。ウィーン時代は、仕事プラス好きなことができて、本当に充実した毎日でした。ウィーンの時の教え子とは、津田塾に入ってからのサバチカルリーブ(大学教員の長期休暇のこと)で20年ぶりの再会を果たしているんですよ。ワインを飲みながら、それぞれの話を聞いて……。みんな、立派に成長して、充実した日々を送っていました。ウィーンは、私にとって忘れられない思い出です。」

「ウィーンから帰国後は、今の千駄ヶ谷キャンパスの地にあった津田塾会津田日本語教育センターで、日本語教師養成の仕事を始めました。当時、日本政府の『留学生10万人計画』という政策があったので、外国人留学生に教えてくれる人を養成する気運が高まっていたんです。そこでは、実習生と一緒に、当時は珍しいカラー刷りのタスク教材『にほんごきいてはなして』というものを作りました。」

—そして、1990年の日本語教員養成課程開設を機に津田塾大学で教えることになったと言います。

「津田日本語教育センターで教員養成の仕事をしていた縁で、1990年の時に声をかけていただき、現在に至るまで津田塾大学で教えています。現在、担当しているのは、『第二言語習得論(日本語教育)』、『日本語教材・教具論』、『日本語教授法』、『日本語教授法演習』の授業。とくに『日本語教授法演習』は、日本語教員養成課程の最終段階の授業なので、より実践的ですね。例えば、留学生の日本語学習支援や、日本語学校生との交流、地域在住の方たちと、自分たちの住む地域の便利マップを一緒に作ったりする企画、子どもたちと一緒に、好きなことばを母語や日本語などで書いたりするお習字企画など毎年、グループごとに参加型の様々な企画を行っています。演習の授業を履修する学生が一から自分たちで企画するんです。とくにこの便利マップは、参加者の方に関係のあることで、すぐに使えるから非常に活動が盛り上がりましたね。」

「 一旦は、津田塾を離れたけど、こうしてまた戻ってきたというのは何とも不思議な話です。」

便利マップ作成中の様子

便利マップ。日本語教授法演習の活動報告は、津田塾内の「星野あい記念図書館」でも見ることができるので、気になる方はぜひ見てみてください。


日本語教育を再考する時代

—長年に渡り、日本語教育と共に走って来られた林先生。後半では、変化しつつある日本語教育の現場の最前線についてお聞きしました。

「最近、津田塾の日本語教員養成課程の設立25周年のシンポジウムがありました。そのテーマが『多文化社会で日本語教育ができること』。戦後70年を機に過去のいろんなことが振り返られましたよね。日本語教育もまた同じで、振り返りのきっかけは戦争中、日本語を植民地で教えていた方が『再考するべきだ』と声を上げられたことでした。日本語教育が、かつて戦争の道具になっていたことが意識されるようになったんです。戦後の日本語教育は、戦争中のそれを一旦脇に置いておいて、新しい日本語教育を今からやりましょう!という流れで来ているため、ポジティブな面だけを見るようにしてきたところがあります。しかし、70年を境に戦争中の事実を放置したままではいけないと日本語教育を再考する時期が来ているように感じています。」

—なぜ、現代の私たちが日本語教育を再考する必要があるんでしょうか。

「日本語教育は相反する作用を持っています。それをよく表しているのが、シンポジウムで登壇された石井恵理子先生(東京女子大学)の『日本語教育というのは、つなぐものでもあるけれど、ともすると、人を分ける』ということば。学習者は日本語を学ぶことで、今までつながっていなかった日本社会・文化・人と日本語を通して関わりあうことができますよね。その一方で、日本語によって力関係も生じてしまうんです。例えば、教える側と学ぶ側の関係。日本語を教える側は、圧倒的な知識を持っているから評価する立場になることが多く、学習者は評価される立場になります。その力関係は、戦争中には、支配する側、される側としての関係でした。戦争につながるような日本語教育はしてはならないと思います。」
  

—日本語教育のそういった現状は知りませんでした。

「そうですよね。日本語教育の反省は、共有されていないんじゃないかと思います。現在、津田塾で使用している教授法の教科書には『日本語教育をふりかえる』という章が設けられていて、日本語教育がかつて、侵略と戦争の手段とされた時代があったことが記されていますが、戦争の記憶が薄らぐ中、共有されないままになっていくのではないかと気がかりです。」

—私は海外で子どもたちへの教育ボランティアをしたことがあり、訪問先でのレクリエーションや企画に日本の概念や製品を積極的に取り入れていいのか問題になった経験があります。教育は子どもたちの大事な未来に関わることだからと……。では、私たちは一体どのようにすればいいのでしょうか。林先生はどうお考えですか。

「日本語教育をやっちゃいけないというわけではないんです。現地から日本語教育をやってほしいと要請されたら、果たして本当に積極的にやるべきなのか、それによる弊害はないのか立ち止まって、良い・悪いの両方を考える必要があるんです。何事にもそうした多角的な視点が今の社会には必要だし、そういった視点を津田塾生にも持ち続けてほしいと願っています。」
 

—最後に津田塾生に向けて、ご自身の体験を踏まえながらメッセージをお願いします。

「津田塾生の皆さんは、本当に何でも一生懸命ですよね。頑張る人が多い。その姿勢は昔も今も変わらないような気がします。ただ、忙しい分、優先順位をつけることが大事。先生や周りの人から言われたことをただこなすだけじゃなくて、自分の中で何か引っかかったもの、そういったものを大事にして欲しいです。それは勉強だけではなくて、サークル、アルバイトでもいい。私でいうと学生時代の家庭教師のアルバイトやコーラス。その経験がなければ、YMCAに行くこともウィーンを訪れることもなかった気がします。今、考えてみると、あの時の経験が日本語教育の道につながったきっかけだと思うんです。」

「それから振り返りも大事。日本語教育の再考もそうですよね。ただ闇雲に突っ走ると失敗する可能性が高い。それを防ぐために、客観的に振り返る過程が必要なんです。心に残ったことを丁寧に、大事に。あとで、人生を選択するときのヒントになるかもしれないから。そして、津田塾生は頑張り屋さんなので、めまぐるしい生活の中で、振り返る時間をちょっとだけでもいいから、設けてほしいですね。」



 

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