人生と学び

賢く、自由に生きる 吉岡 潤

2016. 9. 30 記事修正のお知らせ

本記事において、一部セクションが、システム不具合により表示されない状態になっていたことがわかりました。当該セクションが原稿の意図通りに表示されるように修正を行いました。(郷路拓也 / plum garden編集部顧問)

 

国際関係学科一年の必修授業である国際関係概論を担当し、多くの学生がお世話になる吉岡先生。論理的で一見難しそうな内容も、例え話を用いてわかりやすく解説して下さいます。また、穏やかな語り口調の中で時々ジョークを挟むなど、ユーモアの溢れる優しい先生です。今回は、小学生の頃から歴史が好きだったという吉岡先生に、東欧研究の道へと至った学生時代、ご自身の人生における学びについてお話を伺いました。


部活と学業の両立を追い求めた学生時代

「学生の頃は陸上部に所属していました。種目は短距離です。毎日練習が15時から始まったので、4・5限の授業はほとんど出たことがありません(ちなみに1限の授業もほとんど出たことがありません)。うちの陸上部には短距離・長距離などの種目別パートの他に、『麻雀部』や『ツーリング部』などの裏パートがいくつかあり、学年や種目を超えた交流が盛んでした。僕はツーリング部員で、合宿や大会で遠征するたびにバイクで日本各地を巡りました。当然、陸上部の仲間とは、学部のクラスや専攻の同僚よりもずっと長く濃密な時間を共にすることになります。だから陸上部の仲間とは、今でもとても仲が良いですよ。去年も母校が全日本大学駅伝に出場するというので、同期と伊勢まで応援に行ってきました。卒業後の道はそれぞれでも会えば一瞬で学生に戻れる、貴重な友人たちです。」




-そんな吉岡先生が東欧研究にの道へ進むことになったきっかけは1989年に起きた東欧での政治変動でした。

 「僕は大学に入ってしばらくは勉強をしていませんでした(笑)。部活があったというのもありますが、京大生は授業になんか出ないものだという言い伝えを勝手に踏襲してしまって……。入学した1989年の6月には、中国で天安門事件という大きな事件が起きていましたが、知的に無為だった当時の僕のアンテナにはひっかかりませんでした。高校生のときには「世界有数レベルの京大東洋史で学ぶのだ!」と考えたこともあるぐらいなのに。」

「果たしてこのままでいいのだろうかと考え始めた一回生の秋、東欧諸国で政治変動が起こりました。どうしてかそれが、自分のアンテナにひっかかったんですね。僕の中では、東欧はソ連の言いなりになっている、まったく動きのない静的な地域という印象でした。それが実際にはこんなにも大きく変動し、社会主義政権もあっさりと倒れていって……東欧は動きのあるダイナミックな地域だったのか、と驚きました。そのころからソ連や東欧関連の本を読み始めました。ロシア語を学び始めたのも二回生になってからです。」

「三回生からは史学科に進むつもりだったので、主にロシア史や東欧史の本を読み進めていきました。その中で面白そうだと思ったのがポーランドとチェコスロヴァキアでした。特にポーランドは歴史の転変が激しく、とにかく読んでいて一番ドラマチックでした。偶然にも三回生のときに、古代教会スラヴ語を専門としている言語学の先生が、何の気まぐれかポーランド語初級の授業を開いてくれました。そこで文法を学び、ポーランド語が読めるようになり……。これがポーランドを専門とする決め手となりました。」



大学院進学と、ポーランドへの留学

-ポーランドへの興味は、吉岡先生を研究者への道へ誘います。

「第二次世界大戦中のポーランド・チェコスロヴァキア連邦構想というテーマで卒業論文を書いて学部を出た後、そのまま大学院に進学しました。会社で働く自分はイメージできませんでしたし、研究者になりたいという気持ちもぼんやりとありました。修士課程では、卒論からの続きで進めていた研究が行き詰まり、修士論文を所定の二年で書くことができませんでした。ウンウンうなった結果、実際には起こらなかったことをテーマとすることを思い切ってやめて、実際に起こったことをテーマにすることにし、余分に一年かけて修士課程を修了しました。留年は挫折と言えば挫折でしたが、戦後ポーランドが社会主義化する過程と、ポーランドが多民族国家からポーランド人国家へと変貌する過程とを重ね合わせて考察するという、今日まで継続しているテーマ に出会えた貴重な足踏み期間でした。」

「博士課程に進んだ年の秋から、二年半ポーランドのワルシャワに留学しました。それが初めての海外渡航でした。初めての海外がいきなりの長期滞在で、しかも結婚していたので妻連れで、留学中に父親を亡くしたり、代わりに(かどうかわからないけれど)子どもが産まれたり、床屋で1.5cm切ってくれと頼んだら1.5cmに切られて厳冬下に丸刈りになったりと、波瀾万丈盛りだくさんの二年半だったなあ……。」

−現地へ行くと本を読むだけではわからない新たな発見がたくさんあったといいます。

「日本で見ることのできない原史料に初めて触れたときは鳥肌が立ちました。ある政治決定の原案を記したタイプ原稿に、当時のトップ政治家の直筆メモが鉛筆で書かれたりしているんですよ。消しゴムで消そうと思えば消せる、つまり過去を歪めようと思えば歪められる「ホンモノ」を前に、思わず居ずまいを正しました。他にも終戦直後の役所の文書なんかを見ていると、物資不足だったのかナチ・ドイツの占領当局が残していった文書の裏紙を使っていたりするんですね。文字情報以上の、何というか、時代の息づかいを史料という物体が語りかけてくれるような気がしました。」



津田塾大学で教えること

(2016.9.30 このセクションが表示されるよう修正しました)
吉岡先生は帰国して三年後、津田塾大学の国際関係学科に赴任します。史学科ではない場所で教えることには、新たな気付きがあったといいます。

「国際関係学科に赴任してから、自分が取り組んできた歴史学と重なる部分はあるものの、基本的に異なる分野と言っていい国際関係学と向き合うことになりました。『国際関係概論』という講義も担当するようにもなりました。学科の他の教員や学生と議論したり、国際関係概論の授業準備や質問への応答を考えたりしているうちに、それまでの自分の専門分野と、他の学問分野とのつながりであるとか、違いが感じられるようになってきた。自分が閉じこもっていた史学科的発想、ひいては歴史研究というものを、より俯瞰できるかもしれないと思い始めました。『メタ認知』って言うんですかね。」

「自分を縛っている、目に見えない『殻』に気づくことができ、これまでより一段高いところから物事を見られるようになった時って、『自由』を実感できる瞬間だと思うんですよね。限界を知ることで自由になれるというか。そういう意味で、自由になりたい、賢くなりたいというのが、僕の勉強のモチベーションかも。」
(修正ここまで)
 

(2016.9.30 この写真が表示されるよう修正しました)

賢くなることの楽しさ

−津田塾生への印象、学生へのアドバイスをうかがいました。

「みんな、それこそ『メタ認知』のないまま、やたらと目標だけ高いな、と思います。世界平和だとか貧困をこの世からなくすだとか。それはとてもいいことなんだけど、限界を見極め、自分の立ち位置を客観的に把握しようとしないから、目標だけで立ちすくんでしまっている。自分の手が届くところで出来ることを増やしていくっていうのも、高い目標と矛盾しないんじゃないかな。あえて言うなら、目標は低く!」

「授業をやっていて、『これを学んだところで自分に何が出来るのだろう、世界が平和になるわけでもないし』という反応がよく返ってきます。でも僕は、『自分が賢くなる』のを喜べるようになることが大切だと思うんですよ。別にここで世界が救えるわけじゃないかもしれないけど、自分は賢くなった、今まで持っていなかった視点で物事を考えられるようになった自分が嬉しい、というように。もっと自分中心に学んでいいと思う。」

「津田塾の学生はみんな課題やバイトに忙しそうですね。自分の内側で燃えさかる知的好奇心に向き合うヒマがあるんだろうか?『あの日何していたっけなあ』という日をつくるなというのが普通なんでしょうが、僕は『あの日何していたっけなあ』という日をもっとつくりなさいよ、とアドバイスしたいです。もっと授業を減らして、ぼーっとしようよ。」