津田塾探訪
津田塾探訪 #27 津田梅子ゆかりの地を巡る
2024年7月3日より、一万円札、五千円札、千円札が改刷されます。
五千円札の肖像に選ばれたのは、みなさんご存知のとおり、津田塾大学の創立者である津田梅子です。
これを機に、近年津田梅子に多くの関心が集まっているのではないでしょうか。
とはいえ、津田梅子が生きていたのは今からおよそ100年前……。
お札になったとしても、その存在を身近に感じることはなかなか難しいかもしれません。
そこで今回は、津田梅子にゆかりのある場所を調べ、実際に足を運ぶ、いわゆる「聖地巡礼」を行いました。
津田梅子がこれまで教師として勤めていた学校の現在地を割り出し、
・学校の概要
・津田梅子との関係
・住所
・アクセス
についてまとめます。
1882年に津田梅子が日本へ帰国してから現在に至るまで、時代を遡ってみましょう。
海岸女学校
1874(明治7)年、女子教育を通じたキリスト教の伝道を目標とする女子小学校が設立され、翌年に「救世学校」と改称されます。1878(明治11)年、校舎が築地明石町に移転したことを機に「海岸女学校」と改名されました。
津田梅子が海岸女学校に勤めたのは、アメリカから帰国した後、1883(明治16)年の2ヶ月間でした。女子小学校の創設には津田梅子の父、津田仙が大きく関わっていたのです。また、海岸女学校は青山女学校の前身であり、現在の青山学院の源流でもあります。
住所:東京都中央区明石町6-24
アクセス:東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口より徒歩約8分
桃夭女塾
桃夭女塾は1882(明治15)年、下田歌子※1により麹町壱番町の屋敷に開かれました。現在の実践女子学園の源流にあたります。ここには上流家庭の子女のみならず、伊藤博文夫人・山県有朋夫人・田中光顕夫人らをはじめとする名流夫人らも入門しました。
津田梅子と下田歌子の出会いは伊藤博文を通じたもので、当時梅子は伊藤邸に移り住み、伊藤の妻の英語通訳や娘の教育をしていたのです。
歌子は英語を教える人材を探していたため、梅子に懇願します。1884(明治17)年2月、梅子は桃夭女塾にて英語教師として勤務する傍ら、歌子から国語と書道を習うようになりました。桃夭女塾での教師生活が契機となり、公職※2に就く道が開けてきたのです。
※11854年8月8日〜1936年10月8日。女子教育家。1872(明治5)年に宮内女官となり、皇后より歌子の名を賜るが、1879年に辞官し下田猛雄と結婚。引用:www.ndl.go.jp/portrait/datas/4146/
※2公的性格を持つ職の総称。
住所:東京都千代田区九段南2丁目(旧:東京都麹町区壱番町42番地)
アクセス:東京メトロ東西線・半蔵門線「九段坂下駅」4番出口より徒歩約10分
華族女学校
1885(明治18)年、官立女学校である華族女学校が設立されました。華族女学校はもともと1877(明治10)年から学習院女子部として設けられており、宮内庁の直轄学校として独立したのが華族女学校でした。
下田歌子が学監※3となり、津田梅子は伊藤博文の推薦により教授補※4として英語を教えました。翌年、職制の変更に伴い嘱託教師※5となりましたが、まもなく教授となり、奏任官六等※6として年俸500円を支給される公職につく事ができました。
華族女学校に勤めている時、津田梅子は再度アメリカに留学することを決めました。
1度目の留学で知り合ったメアリ・モリスという協力者が、ブリンマー大学の当時の学長と交渉し、授業料及び寮費の免除という待遇で、梅子の受け入れが決まったのです。華族女学校もまた、梅子が在籍したままで2年間留学することを許可し、1889(明治25)年、24歳で2度目の留学を実現させました。
※3旧制度で、学長・学校長を補佐し、学生を監督する役職。
※4大学などで、研究や教育の最高位である教授を補佐する役職。
※5正式の社員・職員に任命されないで、ある業務・事務に携わる教師。
※6奏任官とは、明治憲法下での官吏の身分上の等級。1等から6等まであった。
住所:東京都千代田区永田町2-8-12参議院議長公邸東門
アクセス:東京メトロ半蔵門線・南北線・有楽町線「永田町駅」6番出口から徒歩約2分
明治女学校
1885(明治18)年、麹町区下6番地に位置したのが、明治女学校です。明治女学校はキリスト教精神を謳いつつ、芸術至上主義と言ってよいほど、自由で大胆な女性開発の教育を行っていました。
2度目の留学から帰国した後は、華族女学校で教える傍らで、津田梅子は明治女学校の高等科でも教鞭をとりました。ここで梅子が教壇に立ったのも、津田仙の学農社※7に学び、仙の事業を助けていた巌本善治が明治女学校校長であったからだと考えられています。
※7津田仙は明治初期の農学者であり、1875年に設立された学農社では『農業雑誌』、『北海道開拓雑誌』を発行し、西洋農法の普及に携わりました。
住所:東京都千代田区6番町3丁目1
アクセス:東京メトロ有楽町線「麹町駅」5番出口より徒歩約5分
女子高等師範学校
1874(明治7)年、女子の職業的専門教育機関として国家の支援により東京女子師範学校が設立されます。1885(明治18)年、女子高等師範学校女子部となり、翌年には「師範学校令」により「高等師範学校」へと変化します。1890(明治23)年、「高等師範学校」から女子部を分離して女子高等師範学校となりました。これが現在のお茶の水女子大学となり、実質的な女子の最高学府としての大きな役割を果たしてきたと言えます。
津田梅子は1898(明治34)年、華族女学校と共に女子高等師範学校でも教授として勤務し、英語教育界の重鎮としての名声を高めました。
住所:東京都文京区湯島1-5
アクセス:JR中央線・総武線「御茶ノ水駅」1番出口より徒歩約5分
女子英学塾元園町校舎(東京府麹町区元園町1丁目41番地醍醐侯爵邸跡地)
最初の留学から帰国した17歳の時に「女性のための学校」を作ることを決意した津田梅子。1900(明治33)年7月20日付で女子英学塾設立を東京府知事に申請し、同月26日付で許可が下りました。
そして1900(明治33)年9月14日、東京市麹町区一番町15番地にて、開校式が行われます。
女子英学塾は学生の増加に伴い、3度の引越しを行いました。
アメリカでは女子英学塾支援団体である「フィラデルフィア委員会」により寄付金が集められ、その第1回送金分(約4,000円)で元園町1丁目41番地醍醐侯爵邸を買い受けました。
その数年前、醍醐侯爵邸では忌まわしい凶事があり、たいそう荒れ果てていたということで、第1回送金分の大半である約3,000円で改築され、1901(明治34)年4月5日に一番町の校舎から初めての引っ越しを行いました。
現在では、「一番町東急ビル」が位置しています。
住所:東京都千代田区一番町21
アクセス:東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」5番出口よりすぐ
女子英学塾麹町区五番町校舎(東京府麹町区五番町17番地)
女子英学塾は2度目の引越しを行うことを決め、1902(明治35)年7月に麹町区五番町、英国大使館裏手にあった清修女学校の土地建物が売りに出ていたのを、津田梅子とアナ・ハーツホンが買い取りました。この費用1万円の大部分は、ボストンのヘンリー・ウッズ夫人※8からの寄付でまかなわれていたそうです。
その後、五番町17番地の土地を買い増し、9月に木造2階建て1棟を新築しました。
ここにあった校舎は、1923(大正12)年の関東大震災により消失してしまいます。同年10月10日、麹町区上二番町女子学院に生徒を集め、授業が再開されました。幸いにも、震災による死亡者、負傷者はいませんでした。震災が暑中休暇中であり、塾には地方の生徒が多かったこと、学用品、衣類の貸与、経済的支援の申し出などの配慮があったことで、就学生徒数の減少を最小限に食い止めることができたといいます。
現在、この跡地にはフレンチレストラン「村上開新堂」が位置しており、建物の柱には記念プレートがありました。
※8「フィラデルフィア委員会」の有力メンバーであるフィラデルフィアの資産家ルブテリア夫人の娘で、母娘そろって「梅子の学校」の賛同者でした。
住所:東京都千代田区一番町27
アクセス:東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」4C出口より徒歩2分、東京メトロ有楽町線「麹町駅」3C出口より徒歩7分
東京都小平市津田町2-1-1(現在の津田塾大学小平キャンパス)
塾の拡張は、もともと五番町の1,600坪の校地を保持することを前提として考えられていましたが、第1次世界大戦の東京府全体が郊外発展の傾向を見せていたこともあり、1922(大正11)年11月24日の臨時社員会ではすでに移転の必要が認識されていました。
候補地は、当時の武蔵野線沿線の石神井、保谷、清瀬、中央線沿いの小平と、4か所だったそうです。
翌1923(大正12)年、臨時社員会と拡張調査委員会の合同会議が開かれ、「北多摩郡小平村大字小川の候補地を内定すること」「敷地坪数は2万坪以上、3万坪以内にすること」「買収費支出に関しては同塾資金募集委員会に委託すること」ということが決議されました。
関東大震災の発生により、アナ・ハーツホンや、サンフランシスコに住んでいた津田梅子の妹、安孫子余奈子をはじめとする協力者の力添えのもと、フィラデルフィア委員会、ロックフェラー財団、女子英学塾救済委員会カリフォルニア支部から寄付金が集まり、麹町区五番町の仮校舎や新校舎の建設にあてることができました。
1930(昭和5)年5月8日より新校舎の建築が開始され、校舎、寄宿舎、教師館、生徒控所、雨天体操場など、工事開始から21ヶ月目に小平校地の主要な建物は完成したようです。
そしてついに、1932(昭和7)年5月21日、新校舎落成式が行われます。
残念ながら校舎の完成を見届けることなく、1929(昭和4)年8月16日、津田梅子は64歳で亡くなりました。亡くなったときは青山墓地に仮埋葬されていたため、塾当局は、津田梅子の墓を彼女の遺言どおり小平の新校舎に設置するため、東京府知事に「創立者墓地の校地内設置願い」を提出します。1932(昭和7)年9月に許可が下りたため、10月8日、墓地改装式が行われました。
住所:東京都小平市津田町2-1-1
アクセス:西武国分寺線「鷹の台駅」より徒歩約8分、JR武蔵野線「新小平駅」より徒歩約18分
津田梅子ゆかりの地を巡ってみて
これまで津田梅子が教鞭をとってきた学校は、明治日本の女子高等教育の先駆けとして創設されてきました。文献を読み解くうちに、長い間アメリカでの生活を送っており、女子教育に長く従事してきた彼女には、教員生活を通して、さまざまな苦悩や心境の変化があったように思います。
現代では、津田梅子が目指していた「男性と協同して対等に力を発揮できる女性の育成」という理念がさまざまな問題を抱えながらも浸透しています。そんな中で、原点に立ってみることにより、「日本の女子高等教育の始まりはここなんだ」と、時代の移り変わりや先人に想いを馳せることができました。
参考図書・資料
・地図資料編纂会『江戸–東京市街地図集成:5千分の1』柏書店、1990年。
・津田塾大学『津田塾大学100年史』津田塾大学100年史編纂委員会、2003年。
・津田塾大学『津田塾大学100年史 資料編』津田塾大学100年史編纂委員会、2003年。
・山崎孝子『津田梅子』日本歴史学会編集、吉川弘文館、1962年。
・青山学院『青山学院の歴史』<www.aoyamagakuin.jp/history/>アクセス日:2024年6月5日。
・お茶の水女子大学『大学沿革』<www.ocha.ac.jp/introduction/info/history.html>アクセス日:2024年6月5日。
・実践女子大学実践女子大学短期大学部『下田歌子小伝』<www.jissen.ac.jp/school/shimoda_utako/biography/index.html>アクセス日:2024年6月5日。