人生と学び

意図せず出会った、幸せな生き方  Mary E. Althaus

厳しさの中にも優しさがあり、あふれるユーモアで多くの学生に慕われるAlthaus先生。
津田塾大学英文学科の教員を35年前から務め、英語を学ぶ楽しさを伝えることに情熱を傾けてきました。学生とは英語で会話することをモットーとしているため、普段は日本語で話す姿を見ることはありません。しかし、アメリカの大学を卒業後、来日してからは、日本の大学、大学院で日本文学の研究にも打ち込んでいました。英語の教員という天職に向かってまっすぐに人生を歩んできたように見えるAlthaus先生ですが、意外なことに当初は「2年滞在したら帰国するつもりだった」と言います。
日本と海外の距離が今よりも遠かった時代、なぜ先生は日本に行くことを決め、津田塾大学に出会って、日本語と日本文学を学んだのでしょうか。透き通る瞳が印象的なAlthaus先生にお話をうかがいました。


きっかけはポストに入った1枚のチラシ

「大学時代はラテン語を専攻していました。ラテン語を専攻する学生は少なく、卒業後の進路は、高校の教員になるか大学院に進学して研究者になるかくらいでした。卒業を間近に控え、果たして本当にそれでいいのだろうかと悩んでいました。いわゆる『大学4年生病』ですね。」

-そんなある日、Althaus先生は、寮のポストに入った1枚のチラシで人生を大きく変えることになります。

「“Wouldn’t you like to go to Japan and teach English to Japanese high school students?” その見出しを読んで、なぜか、やってみようと思いました。普段の私は急に方針を変えるタイプではないのですけれどね。その決断の背景には、当時のアメリカの状況が関係していました。折しも時代は、ベトナム戦争の最中でした。同じ年齢の男子学生が兵士としてベトナムなどに送り込まれたり、徴兵を避けるためにカナダに逃れたりした時代です。日本行きを決めたのも、語学を教えることへの興味より先に、アメリカを外から見てみたいという気持ちが強かったのです。」


はじめての日本、はじめての日本語

「大学を卒業したばかりの1969年夏、日本に渡りました。チラシに書かれていた通り、当初の滞在予定期間は2年半でした。参加したプログラムには、高校生に英語を教える2年に先立って英語教育の方法を身につける半年の準備課程があり、勉強をするために派遣されたのがこの津田塾大学でした。私はティーチング・アシスタントとして学生の英作文のチェックをしたり、英会話の授業などを手伝いながら、英語の教え方を学んでいきました。」

-日本語の「はい」も「いいえ」もわからないAlthaus先生。津田塾大学の学生生活課のアイデアで、準備課程が始まるまでの夏期休暇の間、ある学生の家にホームステイすることになります。

「そこのお宅のお母さんが、本当に面白い方でした。戦争中に学校時代を過ごされたせいで、英語はほとんど学んでいない方でしたが、一緒に朝の連続ドラマを見たり、台所でお手伝いしながら『包丁』や『まな板』という単語を教わったり。髪が伸びて美容院に行かなければならないときは、自分の頭を指さして『草ボーボー』なんて言ったりして。普通、初級者に絶対教えないそういう表現も随分教えてくれましたね。朝ドラで何度も出てきた『大丈夫』という日本語が聞き取れなかった時も、そのお母さんが教えてくれました。実は、はじめは強く長く発音される2音節が耳に残って『ダイジョウ』だと思っていたんです。『ダイジョウって何?』と聞いても、そんな単語はないわよ、という返事。『ほらほらまた言った』とわたしが主張すると、『あッ!これね!』それでやっと『ダイジョウブ』だということがわかったんです。」

-その頃は常に辞書を傍らに置きながら生活していたと、懐かしむように語る表情からは、大変ながらも活き活きとした日々の様子が伝わってきます。

研究者と教育者のはざまで

「市販のテキストで学びつつ、学生に頼んでレッスンをしてもらうなどして日本語の勉強をしました。しかし、半年の準備期間が終わり、4月が近くなっても高校からお呼びがかかりません。そのまま東京に滞在する費用もありませんから、アメリカの両親に『わたしが間違っていた!』と泣きつこうかと考えていたときです。津田塾大学からもう1年間大学に残って、ティーチング・アシスタントをやってもらえないかとお話をいただいたのです。そうして大学に残るうちに1年、また1年と滞在期間が延びていきました。」

「このころからだんだん日本語が面白くなってきて、当時東京外国語大学にあった特設日本語学科に編入することにしました。学部で日本文学を専攻し、さらにその後、明治大学の修士課程で3年間学びました。東京外国語大学では志賀直哉と尾崎一雄を比較して卒業論文を書き、明治大学では葛西善蔵の全作品を読破して修士論文を執筆しました。日本語を読むことはとても面白いです。でも、楽しんで読むことと、研究することはまるで違います。私は教えることの方が性に合っていたんでしょうね。実は、私の母は小学校の教員でした。その反動でアメリカにいた頃は、教員だけはなりたくないと思っていたんですけどね(笑)。」

ことばを学ぶ奥深さ

「語学は本当に奥が深いです。例えば、『象の鼻は長い』という文がありますが、これも英語と日本語では表現の仕方がまったく違う。文法はもちろんのこと、考えてそれを表現するときの発想法がまるで違うんです。そこがたまらなく面白い。その面白さは、語学を学び始めた時から今までずっと変わることがありません。」

-その一方で、語学を学ぶことには苦労がつきものです。Althaus先生も、漢字の書き方を学んだときは、戸惑ったそうです。

「直線的な漢字はまだよいのですが、『足』などの漢字の6画目あたりから、鉛筆をどこに置き、どの角度に線を引けばいいのか感覚的に摑めなくなって一度は挫折しました。しかし、日本に来て1年くらい経つと、毎日見かける看板や街中の風景が、ただのデザインではなく文字として見えるようになりました。その後にもう一度漢字にチャレンジしてみたら、覚えるのがいくらか楽になっていたんです。そういう意味では、語学を学ぶときはその言語が使われている環境に身を置くと覚えが早いと思います。」

「英語を学ぶ学生は、よくLRの発音の違いが難しいと言います。でも、私からすれば日本語の「らりるれろ」も簡単ではありません。仮名の『ふ』の発音だって、英語のHでもなければFでもないので難しい。日本人が英語を勉強するときは、長い橋を渡っているように感じるかもしれません。しかし、見える景色は違いますが、私もその橋の反対側から同じ距離を渡ってきたように思うのです。だから、英語を学ぶ学生たちの苦労がわかります。そういう点でも、日本語を学んで本当によかったと感じています。」

夢が見つからなくても大丈夫

「学生には正しい英語を身につけてほしいと思います。でもそれ以上に、『良い人間』になってほしいと思っています。お金ばかりを追い求めたり、自分が間違っていると思うことでも上に言われたからと従う人もいます。しかし、教え子たちには、自分の意志を持って社会に貢献できるような人になってほしい。それは仕事でもよい、家庭でもよいと思います。自分の考えと責任を持って道を歩いて行ってもらいたいのです。その点では、津田塾の学生たちは、『良い人間』だと言えるでしょう。とても勉強熱心なだけでなく、学んだ能力を活かして、自分のためというよりも、苦しんでいる人を助けたり、間違っていることを正すために行動しようとする。自慢の学生です。」

-優しく真摯な眼差しでそう語ってくださるAlthaus先生。先生の目に映る学生たちの姿は、アメリカを外から見たい、と故郷を飛び出した若き日の自身とどこか重なるように思えます。最後に、進路に悩む高校生に向けて、こんなメッセージを寄せてくれました。

「よく大人は若い人に向かって『自分の夢を持ち、目標を立てて追いかけなさい』と言いますよね。でも私自身を振り返れば、夢なんて持っていませんでした。日本に来た理由も、アメリカを外から見たいという一点だけ。ただ、その時々で自分が『これは』と感じたこと、やってみたいと思うことを繋げていった結果、今の人生があります。それは、狙って計画したことではありません。だから、まだ自分の夢や目標が定まらなくても大丈夫です。やりたいことがわからなくても、まず何か行動してみる。すると色々な人に出会います。何かのグループに参加して、誰かと会話してみることで、それぞれの点が繋がっていくことは少なくありません。津田塾大学に興味がある人は、大学を見学し、在校生と言葉を交わしたり、チャンスがあればキャンパスや授業を見てください。その大学が本当に自分に合っているかどうか、自分の目や耳、皮膚で感じることが大切です。それはどこの大学を志望する場合でも変わりません。その中から、自分に本当に合う場所を選べばよいのです。たとえ今、夢がなくても、まず自分から行動し、つなげてください。いつか自分の歩んだ道を振り返ったとき、どれだけ長い道を歩んできたかが分かるでしょう。」