津田塾探訪

津田塾探訪 #2 - 津田梅子墓所

津田梅子墓所

 学生たちが日々通う小平キャンパス。その校舎から少し離れたグラウンドの奥に、ひっそりとひとつの石碑があります。そこには「Ume Tsuda」の文字が。これが津田塾大学を創設した津田梅子先生のお墓です。4月には新入生、オープンキャンパスの時には受験生が訪れているのを見かけます。

 では、津田梅子先生のお墓がなぜここにあるのかを、梅子先生の人生とともに、ちょっとした噂も交えて、ご紹介しましょう。

「教えることこそ最大の快楽」

図書室(五番町)にて勉学に励む学生たち

  1900年に女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校し、1902年には麹町五番町に新校舎を構えました。当時の学生によると、教室での梅子は異常なまでに熱心で、教えることこそが最大の快楽のような人であったと語られています。授業中には、英語の発音が正しくできるまで何度も発音させ、作文では英語が正しいかどうかだけでなく理論的にもおかしくないかを徹底的に見られたと残されています。日本語は片言じみていて完全ではなかったものの、言葉の感覚が鋭く、訳文が日本語としておかしくないかなどにもよく気が付いた、というエピソードもあります。そのような熱血教師ぶりを発揮する一方で、放課後は学生たちと食事を共にし、アメリカでの話を笑いながら語るといった気さくな人物でもありました。

 
 しかし、1917年ごろから梅子は体調不良に悩まされます。検査入院をした結果、糖尿病と診断され、そのまま2か月間入院することとなりました。この時52歳。仕事一筋であった梅子にとって、突然与えられた空白の時間は相当な苦痛であったようです。手記には「人生は仕事なしでは無意味だ」といった憂いに満ちた文を残しています。
その後も入退院を繰り返し、1919年業務を塾長代理の辻マツに任せる形で事実上塾長の職を退くことになります。

「自分の墓は小平の新校地に」

津田梅子の友人たちが組織したThe Philadelphia Commitee for Tsuda Collegeを中心に復興救援活動が行なわれ、アメリカから送られた木材によって1924年1月に最初の仮校舎が建てられた。

 創立から20年たったこともあり、拡張のため1922年現在の津田塾大学のキャンパスがある小平に新校地を購入しました。しかしその直後の1923年9月、関東大震災によって五番町校舎が全焼。梅子の生涯そのものともいえる五番町校舎の焼失は、彼女にとって非常に衝撃的だったでしょう。

1929年には鎌倉の静養地に移り、同年8月16日に64歳でこの世を去りました。女性の高等教育に夢をかけて教鞭をとってきた梅子にとって、10年以上の闘病期間はつらいものだったはずです。
 
17日には鎌倉に住んでいた卒業生や親友であるアナ・コープ・ハーツホンがその死を悼み、18日に桐ケ谷で遺体は荼毘に付されました。20日に女子英学塾・仮校舎(五番町)の講堂にて行われた葬儀には約1000人が参列し、親友であった新渡戸稲造や、2代目塾長の星野あいが弔辞を述べました。手向けられた花束の中には卒業生からのものもあり、いかに梅子が慕われていたか想像に難くありません。

 梅子は遺言で「自分の墓は小平の新校地に」と残していました。本来、校地内に墓を作るのは困難とされており、青山に仮埋葬されました。しかし、津田梅子に限るということで東京府の許可を得て小平キャンパスの北東隅に墓所が造られ、1932年9月30日に墓地落成、10月8日には改葬式が行われました。

墓碑銘

墓碑の裏側に書かれている津田梅子の略歴

梅子のお墓にまつわる噂

 余談ではありますが、梅子のお墓には津田塾生なら一度は耳にしたことがある噂があります。それは、津田梅子のお墓にお参りすると恋人に恵まれず、結婚できなくなるというものです。一説には2度訪れると呪いが解かれると言われていますが、別の説では3回訪れないと呪いが解かれないとも言われています。また、学部ごとにその内容が異なるとの話もあり、お墓に関する噂は多岐にわたるようです。

  この噂の始まりは定かではありませんが、どこか津田塾生として真実味を感じてしまう部分もあるのが困りものです。当の梅子が生涯独身であり、結婚して不自由になるくらいなら一生独身で自由な方がいいという考えを持っていたのがこの噂の一因かもしれません。また、勤勉な学生が多く、卒業後も社会で活躍する卒業生が多いこともまたこの噂がささやかれ続ける要因かもしれません。


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紅葉と墓所

雪化粧をした墓所


 春には梅、夏は新緑、秋は紅葉、そして冬は雪に包まれる小平キャンパスの片隅に佇む津田梅子のお墓。彼女の最後の言葉は、日記に記された”Storm last night(昨夜、嵐)”だったと言われています。女子高等教育の先駆者として苦難に立ち向かった彼女の人生は、まさしく嵐のようでした。しかし、彼女の功績が繋がって今の津田塾生がいるのです。そして今も、津田塾大学で学び社会へ羽ばたこうとする学生や、世界で活躍する女性を見守っています。

墓所から校舎の方向を望む


参考文献
 
亀田 帛子『津田梅子 ひとりの名教師の軌跡』 2005年、双文社出版
古木 宜志子『津田梅子 人と思想116』 1992年、清水書院
山崎 孝子『津田梅子』 1962年、吉川弘文館