人生と学び
型にはまらない、法学者の生き方 南 諭子
「大学は人生の夏休み」などという言葉とは裏腹に、課題が多く、出席も厳しいと評判の津田塾大学。そんな中、多くの学生が履修する「法学」や「日本国憲法」の授業を担当している南先生は、テストでしか評価をつけません。さらに結果を出せるのであれば、授業に参加しなくてもよいと言い放ちます。国際関係学科の先生方の中でも、ずば抜けてユニークな南先生。型にはまらない法学者は、どのような人生を送ってきたのでしょうか。「人生と学び」第二回は、国際法が専門の南諭子先生の研究室にお邪魔してお話を伺いました。
新しいことへの探究心
「私は『そういえば変な人いたな!』って覚えられているタイプですね。中学校の校則で、髪が襟についてはいけないという決まりがあったのですが、一人だけ髪を伸ばしていたんです。経緯はわからないのですが、先生が上手くことを収めてくれたようです(笑)。あとは、遠足でご飯食べるときに仲間外れを作ってはいけなくて、そのためのグループ決めに先生が口出しして、もめたんです。それですごく面倒になって『私は一人で食べる!』って宣言して、一人で写真も撮ってもらってアルバム載るなんてこともありました。日常生活がハチャメチャだったので、放っておけないようで周りの人が面倒をみてくれました。『大丈夫?みなみちゃん?』という感じで(笑)。」
-そんな南先生は地元の女子高に進学し、唯一の理系クラスで理工学部への進学を志します。研究者になるのが夢で、物理学を専攻しようとしていたそうです。
「父親が幼いときから『物事を知ることは面白い』と話してくれていたおかげで、物質とは何か、宇宙とは何か、ということに興味がありました。自分で何か新しいことを発見したいな、と思っていたんです。ところが、歴代のノーベル物理学賞の受賞者をみてわかるように、理系はチームで研究に取り組むことが多いのです。私はすごくわがままで、勝手な人間なので理系は無理だと思いました。大きなプロジェクトに入ってみんなと共同作業をするなんて到底できないと(笑)。ただ、数学のように論理的に頭を働かせることが好きだったので、そういった考え方が求められる法学を学ぼうと思いました。同じ文科系の分野でも文学や語学はすごく苦手でしたね。」
大学入学、津田塾との出会い
‐自身の性格と向き合い、理系への進学をきっぱりとあきらめ、文系へと転向した南先生。入学したのは今も津田塾大学と活発に交流のある一橋大学でした。当時の津田塾の印象はどのようなものだったのでしょうか。
「入っていたサークルの同期や先輩に津田塾生がいましたし、何回か津田塾に来たこともあります。津田塾のお姉さんたちは、すごくしっかりしていて、自立していて、かっこよく見えました。それに1年生と4年生がため口で話していることが、当時の一橋とは違い、自由で平等な人間という雰囲気がありました。一番衝撃的だったのは、たばこをスパァと吸っているお姉さんがいたことです。とにかく大人の女性という印象がありました。とても面倒もみてもらいましたし、なんかいい学校だなって思いました。」
-所属していた法学部では、憲法の研究者を目指していたとのこと。しかし次第に国際法への関心を高めていきます。当時に抱いていた法学への思いを、ひとつひとつ言葉を選びながらお話をします。
「憲法って、議論が煮詰まっている感じがしたんです。つまり、『ガキ』の自分にとっては決まりきったことを覚えて、その中で議論を組み立てていくような気がしたんですね。当時は司法試験の勉強をしていたこともあり、特にそう思いました。国際法の方が、自分で新しいことを言う余地があるようで。そこで2年生からは国際法のゼミに入って専門として学び始めました。司法試験の勉強をしていたのは、国際法の指導教員に『国際法を知るなら国内法も知らなきゃだめだ』と言われたためです。1年間ほど勉強して実際に受けました。残念ながら不合格でしたが (笑)。」
「大学院では国際環境法を専門に選びました。環境問題を解決したいという理由ではなく、環境法の、環境の利益は現在の法では特定できないという特殊性に興味があったからです。私のコップが壊れたら、『ミナミさんの所有権が侵害された』とすぐわかります。しかし環境の所有権が侵害されることはとてもわかりづらい。将来の世代まで考えなければならない上に、環境が誰の利益なのかもわからない。そういった特殊性を、近代法で組み立てられたシステムがどのように受け止め、どのように変わるのかに関心がありました。今までの理論では説明がつかないものに対して、枠組みがどのように変わるか、というところがとても面白いです。」
教えることの難しさ
「大学院修了後は、すぐに宮崎の大学に就職しました。実家からの援助は無かったので焦っていたところ、修了の本当にギリギリになって公募をみつけて、すぐに働きに出ました。大学入学時には東北から上京し、さらに九州への転居でしたので、まるで外国に行ったように環境が変わり大変でした。赴任先は法学部のない大学だったので、学生はもちろん法学を志しているわけではありません。法学に関心がない人に、専門用語が多い法学を楽しく教えるにはどうしたらいいのか、とても悩みました。その分、 「暗記」でなく「研究」をどうさせるか、モチベーションを持たせるかについては今もすごく活きている気がします。大変でしたが、宮崎は暖かいし人も優しいし、とても良いところでしたよ。空がとても綺麗で、焼酎がおいしかった!(笑)」
‐「得られたことは何よりも教育方法だ」と断言するお姿に、授業で法学というとても固い題材を扱いながらも、多くの学生に支持されているルーツが、ここにあると実感しました。
「二年目に入ってしばらくして、父が病気になり、できるだけ実家の福島の近くにいたいと思い、東京の大学の公募を探しました。そこで津田塾大学の募集を見つけたんです。先ほども話したように津田塾は学生時代に交流があり、もともと良いイメージがありましたし、女子教育が一般的でない時代に女子のための学校を創ったという普通でない、新しい道を歩んできたところに素晴らしさを感じていました。それに募集要件に『国際法』だけでなく『憲法』や『法学』も教えられる人、とあったので、これは私が呼ばれているなと思いました。」
いろいろな視点の中での研究
‐不思議なめぐり合わせで津田塾大学に転勤し、今年で15年目。国際関係学科での学びは、一元的な研究ではなく、多角的な視野を与えてくれるものだと、先生は説きます。
「国際法が憲法になりつつあるという議論があるんです。つまり国際法が立憲化して、各国のルールが統一するのではないか、という議論です。私はその中でも、裁判所の司法権が統一されるのか、もしされるのであれば、環境の利益をもとに訴訟ができるか、ということに関心があります。立憲化するなら、国の統治のあり方が統一されるわけだから、当然そういう細かいところまで入ってきますよね。そういった意味で、自分が学生時代に感じていた『憲法の議論の余地の無さ』は間違っていたのだと思います。」
「そこで、津田塾大学にいるとすごく面白いんです。そもそも日本の憲法の考え方はヨーロッパから輸入してきたものなので、法学部だとそのヨーロッパの頭で考える人が多いんですね。しかし、ここにはアフリカやアジア、さまざまな地域研究者がいるので『憲法がさあ』というと『憲法って何よ?!』って返される。『ああ、すみません、すみません、ヨーロッパ基準でございます』なんて言ったりして(笑)。法学者としてでなくて、地域研究者として立憲制を研究している人もいて、憲法の概念が広がります。もちろんヨーロッパで『憲法』と一口に言っても、イギリスにはイギリス独自の憲法、フランスにはフランス独自の憲法があります。しかもフランスの憲法は時代によって変わってしまう。そもそも憲法ってなんだろうと考えると、実はあまりはっきりしていないことがわかります。」
‐南先生は最後に、これからの学習や社会に出る上で、重要な考え方を教えてくれました。
「『仕組みを体系的に知る』ということには意味があります。原発問題をどう解決するかなどの具体的なことを考えることは重要ですが、法律の仕組み、統治の仕組み、もっと言えば宇宙の仕組み、物質とは何かなどの根本的な仕組みを勉強することも大切です。車がどうして動くかを知っていれば、修理することも改造することもできますよね。同じように、世の中の仕組みがわかっていれば、それを変えることができます。そういう意味でいろんな学問の一つとして法学を学ぶことは大切だと思っています。」
「いきなり仕組みに目を向けろ、と言われても難しいですよね。だから、「変えたい」というところから入るのです。私が、日本国憲法や法学の授業で、仕組みを教え、事例をだし、判決はこうだった、と提示したあとに「あなただったらどういう判決を出すか」と質問をするのは、仕組みの問題点を考えるためです。『原発をなくしたい』とか 『女性の権利を守りたい 』という意見や問題意識はみんなの中にありますから、仕組みを勉強した上で、何が問題なのだろう、どう変えればいいのだろうと考えることが必要です。学生にはそのような力を身に着けて、世の中の仕組みを変えることのできる人になってほしいと思っています。」