津田塾探訪
津田塾探訪 #4 - 中庭のミロのヴィーナスの謎を追え!
中庭とヴィーナス
津田塾大学の正門をくぐるとすぐに見えるのが、津田塾大学本館(ハーツホン・ホール)です。クラシカルな雰囲気の本館の正面玄関を抜けると、整えられた緑の芝生が目を引く、美しい中庭がひろがります。中央の花壇には季節ごとに旬の花が植えられ、四季の変化を感じさせてくれます。課題に追われる日々に、ちょっとした癒しを提供してくれるこの場所は、学生たちの憩いの場です。
津田塾大学が誇る美しい中庭は、1960年に津田塾大学創立60年を記念して造園されました。当時の写真と比べると、現在の姿とほとんど変わらない様子がわかります。
この中庭でひときわ目を引くのが、中央奥に位置する「ミロのヴィーナス」です。ミロのヴィーナスと周りに植えられた草木が織り成す、白と緑のコントラスト。そして手前にある噴水が、ミロのヴィーナスの美しさをより一層際立たせています。
このミロのヴィーナスは、いったいどうして中庭にたたずんでいるのでしょうか。その秘密を探るべく、まずは文献の調査からはじめました。
文献での情報収集
文献を探すにあたって、中庭の造園が1960年の津田塾大学創立60周年を記念して行われたものであることと、当時の津田塾大学の学長が星野あい氏であることを踏まえて、津田塾大学の60周年記念式典の様子がわかる資料と、星野あい氏の自伝を中心に調査をはじめました。
すると、中庭の造園工事の寄付をしてくださったのは、石橋財団(現在の公益財団法人石橋財団)の創設者の石橋正二郎氏(株式会社ブリヂストン創業者)であることがわかりました。実際に石橋正二郎氏の著書を調べてみると、数々の教育機関の施設の拡充や改築の援助をしたなかに、寄付先として津田塾大学の名称が記載されていました。さらに、造園当時の写真により、ミロのヴィーナスは造園当初から、石橋財団が寄付してくださった中庭に存在していることが確認できました。
中庭には造園を記念したレリーフとプレートが設置されています。
聞き込み調査へ
文献での情報収集によって、ミロのヴィーナスは石橋財団の石橋正二郎氏から寄贈していただいたものであることがわかりました。しかし、寄贈の経緯などは依然として謎のまま。文献での調査に限界を感じた私たちは、津田塾大学企画広報課の斉藤治人さんに、お話をうかがうことにしました。
「創立60周年を記念して新館建築する際、中庭約1,000坪の造園については石橋財団から寄贈の申し出があったと、当時の理事会議事録に残ってますが、詳しい経緯は不明です。石橋氏は1951年から逝去される1976年まで、学校法人津田塾大学の監事を務められました。大学運営に深く携わられていたことから、寄贈の申し出があったのではないかと推測できます。
石橋氏は1956年ごろに、自分の故郷の九州にいろいろな施設を建設するための援助をしています。郷里の久留米には石橋美術館も寄贈しているのですが、そこにもミロのヴィーナスを設置しています。それから4年後の1960年に、津田塾大学の中庭にミロのヴィーナスが贈られました。
現在はレーザー測定器などを使って精巧な像のレプリカをつくることができます。ところが、当時はそういうものがなかったので、本物のミロのヴィーナスから直接型をつくったそうです。ちなみに、本物のミロのヴィーナスが来日したのは、津田塾大学の中庭ができてから4年後のこと。つまり、津田塾大学にあるミロのヴィーナスは、本物が来日する以前に、実物から型を取ったものの一体だといわれています。」
「そうなんです。当時は戦後の何もないところから、高度成長期に入っていく時代でした。だから、『いろいろな文化を吸収したい』という気持ちが今以上にあったのでしょう。現在のように、気軽に海外に行ける時代ではなかったですから、海外に対する憧れは非常に強かったと思います。そういう時代に、ミロのヴィーナスが大学にあったというのはすごいことですよね。」
いざ、石橋財団へ
まとめ
今回は残念ながら、「なぜ石橋正二郎がミロのヴィーナスを津田塾大学の中庭に寄付したのか」を明らかにすることはできませんでした。しかし、このミロのヴィーナスの存在が、中庭が造園された時に津田塾大学や卒業生にとって誇りであったということ。そして、学生たちに幅広い教養をもった女性になってほしいという、大学側の思いが込められていることがわかりました。
もし、この記事をお読みになった方で、津田塾大学のミロのヴィーナスの寄贈の経緯などをご存知の方がいらっしゃいましたら、plum gardenの公式Twitterまで情報をお寄せください。
参考文献
津田塾大学『津田塾六十年史』中央公論事業出版、1960年。
公益財団法人石橋財団ウェブサイト http://www.ishibashi-foundation.or.jp/