津田塾探訪

津田塾探訪 #4 - 中庭のミロのヴィーナスの謎を追え!

 ミロのヴィーナスといえば、現在パリのルーヴル美術館で展示されている、世界でもっとも有名な彫刻の一つ。美の代名詞とまで言われる女性像を一目見ようと、世界中からたくさんの人がそこを訪れます。そんなミロのヴィーナスが、実は津田塾大学の中庭にもあることをご存知でしょうか。
 
 
 ところが、津田塾大学の学生にとって「ミロのヴィーナスがいる中庭」は、もう見慣れてしまった光景。誰もミロのヴィーナスに足を止めることなく、像の前を通りすぎてしまいます。しかし改めて考えてみると、なぜミロのヴィーナスがそこにたたずんでいるのか、誰も理由を知りません。今回は、そんな津田塾大学のミロのヴィーナスの謎に迫ります。
 

中庭とヴィーナス


津田塾大学の正門をくぐるとすぐに見えるのが、津田塾大学本館(ハーツホン・ホール)です。クラシカルな雰囲気の本館の正面玄関を抜けると、整えられた緑の芝生が目を引く、美しい中庭がひろがります。中央の花壇には季節ごとに旬の花が植えられ、四季の変化を感じさせてくれます。課題に追われる日々に、ちょっとした癒しを提供してくれるこの場所は、学生たちの憩いの場です。


津田塾大学が誇る美しい中庭は、1960年に津田塾大学創立60年を記念して造園されました。当時の写真と比べると、現在の姿とほとんど変わらない様子がわかります。

造園されたばかりの中庭(津田塾大学デジタルアーカイブより)

同じ角度から見た現在の中庭

太陽のもと、青々と輝く芝生。晴れた日には、この上でお弁当を広げる学生の姿も


この中庭でひときわ目を引くのが、中央奥に位置する「ミロのヴィーナス」です。ミロのヴィーナスと周りに植えられた草木が織り成す、白と緑のコントラスト。そして手前にある噴水が、ミロのヴィーナスの美しさをより一層際立たせています。

造園当時からこの場所に立つミロのヴィーナス。周りの草木は、像を映えさせるために植えられたもの。建築当時、特別教室の1階部分は「ピロティ」と呼ばれる吹き抜けで、その吹き抜けを透かして見える津田塾の森との対比で際立たせるよう設計された。


このミロのヴィーナスは、いったいどうして中庭にたたずんでいるのでしょうか。その秘密を探るべく、まずは文献の調査からはじめました。

文献での情報収集


文献を探すにあたって、中庭の造園が1960年の津田塾大学創立60周年を記念して行われたものであることと、当時の津田塾大学の学長が星野あい氏であることを踏まえて、津田塾大学の60周年記念式典の様子がわかる資料と、星野あい氏の自伝を中心に調査をはじめました。


すると、中庭の造園工事の寄付をしてくださったのは、石橋財団(現在の公益財団法人石橋財団)の創設者の石橋正二郎氏(株式会社ブリヂストン創業者)であることがわかりました。実際に石橋正二郎氏の著書を調べてみると、数々の教育機関の施設の拡充や改築の援助をしたなかに、寄付先として津田塾大学の名称が記載されていました。さらに、造園当時の写真により、ミロのヴィーナスは造園当初から、石橋財団が寄付してくださった中庭に存在していることが確認できました。


中庭には造園を記念したレリーフとプレートが設置されています。
 

中庭の片隅にあるレリーフ

レリーフの下にあるプレートには、This garden was donated by Mr. Shojiro Ishibashi 1960と刻まれている

 

聞き込み調査へ


文献での情報収集によって、ミロのヴィーナスは石橋財団の石橋正二郎氏から寄贈していただいたものであることがわかりました。しかし、寄贈の経緯などは依然として謎のまま。文献での調査に限界を感じた私たちは、津田塾大学企画広報課の斉藤治人さんに、お話をうかがうことにしました。 

 
 
—さっそくですが、津田塾大学のミロのヴィーナスが寄贈された経緯をご存知ですか。

 

「創立60周年を記念して新館建築する際、中庭約1,000坪の造園については石橋財団から寄贈の申し出があったと、当時の理事会議事録に残ってますが、詳しい経緯は不明です。石橋氏は1951年から逝去される1976年まで、学校法人津田塾大学の監事を務められました。大学運営に深く携わられていたことから、寄贈の申し出があったのではないかと推測できます。

石橋氏は1956年ごろに、自分の故郷の九州にいろいろな施設を建設するための援助をしています。郷里の久留米には石橋美術館も寄贈しているのですが、そこにもミロのヴィーナスを設置しています。それから4年後の1960年に、津田塾大学の中庭にミロのヴィーナスが贈られました。

時期が近いことからも、石橋美術館のミロのヴィーナスをつくるときに、その一環で型を取られたものが津田塾大学に寄贈されたのだと類推することができます。
 

現在はレーザー測定器などを使って精巧な像のレプリカをつくることができます。ところが、当時はそういうものがなかったので、本物のミロのヴィーナスから直接型をつくったそうです。ちなみに、本物のミロのヴィーナスが来日したのは、津田塾大学の中庭ができてから4年後のこと。つまり、津田塾大学にあるミロのヴィーナスは、本物が来日する以前に、実物から型を取ったものの一体だといわれています。」

 
—それでは、本物が来日する前に、津田塾大学の中庭には、もうすでにミロのヴィーナスがあったということですか。
 

「そうなんです。当時は戦後の何もないところから、高度成長期に入っていく時代でした。だから、『いろいろな文化を吸収したい』という気持ちが今以上にあったのでしょう。現在のように、気軽に海外に行ける時代ではなかったですから、海外に対する憧れは非常に強かったと思います。そういう時代に、ミロのヴィーナスが大学にあったというのはすごいことですよね。」

 
「津田塾大学は、幅広い教養をもった女性を育成することを主眼にしていました。そのため、ただ講義をするだけでなく、著名な方を呼んで講演会を開いたりしていました。だから、こういう美術的なものにふれて『美を感じる力』を養ってほしいという、大学側の思いもあったのかもしれませんね。」
 

 
お話をうかがった結果、石橋財団は当時、美術館などの施設を各地に寄贈しており、その一環として、津田塾大学にも中庭とミロのヴィーナスを寄贈してくださったのではないかという推測にたどりつきました。
 

いざ、石橋財団へ


 文献での情報収集、そして斉藤さんからのお話から、少しずつミロのヴィーナスの真相に近づいてきました。しかし、まだまだ推測の域を出ず、詳しいことはわからずじまい。ミロのヴィーナスに関する資料はほとんど残っていないようで、自分たちでこれ以上調べるのも難しいようです。
 
 
 どうしたものかと思い悩んでいたそんなとき、「それじゃあ、石橋財団の方に直接お聞きしてみよう」と思いたちました。石橋財団のホームページを開いたところ、お問い合わせ先を発見。善は急げということで、すぐに石橋財団に連絡しました。すると、津田塾大学のミロのヴィーナスについて調べてくださいました。

 
 調べていただいた結果、残っているのは、1960年に津田塾大学への寄付、中庭の工事費として1,573,665円かかったという記録だけだということでした。
 

まとめ


今回は残念ながら、「なぜ石橋正二郎がミロのヴィーナスを津田塾大学の中庭に寄付したのか」を明らかにすることはできませんでした。しかし、このミロのヴィーナスの存在が、中庭が造園された時に津田塾大学や卒業生にとって誇りであったということ。そして、学生たちに幅広い教養をもった女性になってほしいという、大学側の思いが込められていることがわかりました。
 
 
中庭が造園されてから55年。ミロのヴィーナスは、どんなに時代が移り変わっても同じ場所にたたずみ、学生を見守り続けてきました。その姿は、まるで「時代に流されず、自分の意志をしっかりともった人間になってほしい」と、私たちにうったえかけているようにもみえます。謎に包まれたミロのヴィーナスは、これからもずっと、自身の成長のために日々努力を重ねる津田塾生を優しく見守っていてくれることでしょう。
 

もし、この記事をお読みになった方で、津田塾大学のミロのヴィーナスの寄贈の経緯などをご存知の方がいらっしゃいましたら、plum gardenの公式Twitterまで情報をお寄せください。
 

参考文献


津田塾大学『津田塾六十年史』中央公論事業出版、1960年。
津田塾大学100年史編纂委員会編『津田塾大学100年史』津田塾大学、2003年。
津田塾大学『津田塾たより 第14巻—第19巻』津田塾大学、1960年。
星野あい『小伝』中央公論事業出版、1960年。
石橋正二郎『回想記』凸版印刷株式会社、1970年。
津田塾大学デジタルアーカイブ http://lib.tsuda.ac.jp/DigitalArchive/
公益財団法人石橋財団ウェブサイト http://www.ishibashi-foundation.or.jp/