梅いち凛 ~咲いた津田塾生~
「わからない?」なら、見に行こう! 菅野沙那子さん
「これ、インドネシアの伝統的な衣装で、礼拝の時間に着ていたんです」菅野さんはそう言って今回の取材に臨んでくれました。彼女は約半年間、「日本語パートナーズ」というボランティア活動を通して、インドネシアに滞在していました。このプログラムは、日本人以外の人に日本語を教える「日本語教育」を支援するもので、ASEAN諸国に日本語教育の補助教員として赴きます。
彼女はどうして、日本語教育に関心を持ち、インドネシアへ向かったのでしょうか。プログラムに参加したきっかけや、インドネシアでの体験、今後やりたいことについてうかがいました。
「もやもや」を「これだ!」にする
ーまず、今回の「日本語パートナーズ」を知ったきっかけを教えてください。
「2年生の時に受講した『国際交流論』という授業で、講師の方が紹介していたのがきっかけです。その授業の時の中で日本語教育事業関連のプログラムの一つとして、『日本語パートナーズ』があることを知りました。もともと留学や東南アジアに興味があったし、『日本語や日本文化を教える』というタスクをもとに、自分でいろいろ考えて行動できるのが楽しそうだと思いました。」
「幼い頃に見たドキュメンタリー番組がとても印象的だったのを覚えています。フィリピンの貧困地域に焦点を当てたもので、『全然自分と違う世界だな』『こういう人たちのために何かできるのかも』と漠然と考え始めましたね。」
「一方で、大学に入学するころには、『英語を話せるようになりたい』『英語を活かして何かしたい』とぼんやり思っていました。そこで、アメリカやイギリスといった国に留学してみたいな、とも考えていました。でも、具体的に英語を活かして何をしたいかとか、留学先で何を勉強したいのかはわからないまま、大学1年生を過ごしていました。」
ー英語を活かして『何か』をしたいと考えていた菅野さん。その何かを探るために選んだのは、『実際に海外へ行ってみる』ことでした。
「大学に入るまで、海外に1回も行ったことがなくて。なんとなく英語圏への留学に絞っていたけれど、私は今自分がいる社会と全く違うところで暮らしてみたいんじゃないかって気づいたんです。だから、かつて自分が『一番違うな』と感じたフィリピンに2回行ってみました。その中で、『私は東南アジアでできることがある』と確信して、国際交流論で紹介されていた『日本語パートナーズ』に参加しよう!と意思を固めました。それまでは漠然と何かしたいな、と思っていたけれど、やっぱり自分の目で見てみることから始めるのが大切ですね。」
実際に見て学ぶ
ー今回のプログラムでは、インドネシアに行く前に事前研修をしたそうですね。それだと、そこまでカルチャーショックを受けなかったのでは?
「いや、思っていた通りだなと思ったことがほとんどなくて、すべて予想を覆されましたね。派遣前から『インドネシアでは、日本と比べて細かい事を気にしない』って聞いてはいたんですが、想像をはるかに超えていました。待ち合わせの時間通りに行ったら私以外の人がいなくて、結局2時間待たされちゃったり(笑)。それはその人たちにとって当たり前だから、慣れるしかなかったですね。」
「一方で、予想通りだったところもあります。インドネシアでは『人に怒ること・怒られること』って、すごく恥ずかしいことらしいです。だから、たとえ相手が遅刻したり、ひどいことをしても受け流すんです。お互いがそうだから、許し合えるんでしょうね。」
「あと、面白いなと感じたのは『もう食べた?』『もうお風呂に入った?』っていうのが挨拶だというところです。向こうの人にとって、お腹がいっぱいであることは幸せなことだし、朝晩お風呂に入るのも当たり前で大切なこと。だから、『もう食べた?』に『ううん。まだ食べてないんだ』って返すと、『えっ!かわいそう!これあげる』って食べ物をくれるんです。最初は『なんでこんなに食事とかお風呂のこと尋ねてくるんだろう?』と思っていたんですが、現地の人と交流していく中で理解していきました。」
言語を学ぶこと・言語を教えること
ーまさに異文化の中での生活。一番戸惑ったのは、「言語」についてだったといいます。
「事前研修でも、インドネシア語の授業は比重が大きかったです。3週間の研修で、毎日3時間くらいやりました。それに、私が派遣されたバリ島は観光地のイメージが強かったので、『これだけインドネシア語を勉強したし、いざとなれば英語や日本語を使えるだろう』と思ってたんです。でも、実際半年間過ごすうちに、それが駄目なことを痛感しました。私の派遣先ではインドネシア語とバリ語が主に使われていて、事前研修で習ったものよりも口語的な表現でした。それ以外だと、日本語はもちろん、英語もあまり通じなくて。最初の方はGoogleで分からない単語を検索して、なんとかやっていました。」
「そこからは、現地で地道に勉強しましたね。街中で見かけた単語を携帯とかにメモして、後で家に帰ってから辞書で調べたり、現地の人と話していく中で『こんな時はこういう風に言うんだな』って、手探りで学んだりしました。おかげで、なんとか生活できるレベルには、インドネシア語を身につけられたかな、と思います。」
ーインドネシア語を学ぶのに、相当苦労したんですね。逆に、日本語を教えるうえで難しかったことはありますか?
「私は、日本語は勉強しようと思って身につけたものではないから、勉強している人にとっての日本語の難しさが全然わからず、説明に苦労することが多かったです。例えば、『なんで学校に行きますか?』という文。『なんで』って “why(どうして)”の意味にも、“how(どのように)”って意味にも取れますよね。その微妙な違いを教えるのが大変でした。」
「インドネシアでは、英語に次ぐ第二外国語として日本語を学ぶんです。だから、どうしても『やらされている』って感じている子も少なからずいました。でも、私とすれ違うと『おはよう』とか『こんにちは』って挨拶してくれたり、話しかけたりしてくれる子もいて嬉しかったです。」
ーできるだけ多くの生徒と関わるようにしていたそうですが、中でも「日本語クラブ」の生徒たちへの思い入れは深いようです。
「日本語クラブに入っている子たちは、日本語や日本文化について興味を持ってくれているので、せっかくだからいろいろやってあげたいと思いました。派遣された頃は、部員がとても少人数だし不定期開催なので『大丈夫かな?』と不安になることもありましたが(笑)。活動の甲斐があってか、私が帰国した後に部員がすごく増えたそうです。私が紹介した日本文化や日本語をお互い教え合ってるのかな、と思うと嬉しいですね。私が日本への興味の種をまいてきたみたいだな、と感じました。」
ー今回のプログラムを通して、言語教育に対する関心が高まった菅野さん。来年は英語教育の卒論ゼミに所属するそうです。
「せっかく今まで東南アジアについて学んできたので、東南アジアに関することをやり遂げたいと思いました。『日本語パートナーズ』での活動の中で、英語で話しかけてくる子もいたんです。その時に『この子たち、第一外国語で英語をやって、第二外国語で日本語を勉強してるんだ』と思ったのが深く印象に残ってて。そこで、卒業論文では、インドネシアやフィリピンと言語教育を結び付けたテーマに取り組み、津田塾大学での集大成にしたいです。」
「今のところ、本格的に日本語教員になって学校で教える、というイメージはありません。でも、これからは地域の自治体主催のボランティア教室とかを中心に、国内でも日本語教育のニーズが高まっていくと思います。そういうところで日本語教育のお手伝いができたらな、と思います。」
ー菅野さんとのお話は、どれもインドネシアに赴いてみないと体験できないようなことばかり。実際に気になるところへ行って、自分の目で見ることの大切さを改めて実感しました。