人生と学び
「好き」を切りひらく 小島 敬裕
みなさんにとって、東南アジアとはどのような存在でしょうか。遠いようで近い?それとも、近いようで遠い?そんな東南アジアを、仏教に焦点を当てて研究されている小島先生。ご自身で撮影された、たくさんの写真を用いる講義は、臨場感たっぷり。学生の質問や相談にも、あたたかい笑顔で親身に答えてくださいます。今回は、先生の学生時代から、フィールドの中心であるミャンマーでの生活、さらには出家体験に至るまで、詳しくお話していただきました。
中国から世界に目を向けて
—大学時代は、どんなことに打ちこんでいらっしゃったのですか?
「まず、中国文学が専門だったんですね。なぜかというと、本当にたまたま。もともと僕は授業中、常に質問する人で。質問はありませんかっていうとね、常に手を挙げて、何かつっかかる。そういう感じだったんです。特に中国語の授業ではいつも質問をするから目立って、先生から中国文学科に来ないかって誘われました。『僕、日本史を勉強したくて大学に来たんですけど……』って言ったら、『日本のことを知るには、中国のことがわからなかったらダメだよ』って。それで中国文学科に行ったんです。」
「2年生の時は、中国に短期留学に行かないかって誘われて。1ヶ月だけだったけれど、だんだん中国語が話せるようになりました。話していくうちに、会話できるのが面白くてね。それで、中国を旅行するようになりました。それまで海外に関心はなかったけれど、海外の人とコミュニケーションを取ることは、すごく楽しいことなんだなあって感じて。3年生以降は、休みのたびに旅行していましたね。授業終わるとバイトして、休みになると、もうずっと海外に出て。バックパッカーみたいな感じかな。結局、中国文学は続けなかったけれど(笑)。」
—中国へ留学された先生。そこでは、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、そしてミャンマーと、様々な国との出会いが待っていました。
「中国での短期留学の時は、上海に留学したんですよ。それである程度、中国語が話せるようになって、翌年また上海へ旅行に行きました。その頃の日本には、シルクロードブームがあって。『シルクロード』っていう番組を見て、日本人は行ってみたいって憧れていてね。僕も行ってみたかったから、駅で汽車の切符を買おうと思っていたんです。当時の中国の切符は、外国人用と中国人用とで、値段が全然違ってね。日本人は外見が大して違わないから、中国語さえ喋ることができれば、中国人用を買うことができました。だから、僕はどうしても中国人用を買いたくて。 だけど、切符売り場に行ったら、中国人用はもう数日後までずーっと売りきれでした。唯一あったのは、雲南省行きの切符だけ。それで、しょうがないから、シルクロードへ行かずに、雲南省に行きました。雲南省も良いところだって聞いていたしね。」
「その頃の雲南省には、外国人は行くことができない未開放地域がありました。だけど、中国とミャンマーの国境にある瑞麗っていう町が、ちょうど開放されたと聞いて。行ってみたら、高原地帯からずっと下って行く感じなんだけど、見慣れた温帯の風景から、だんだん亜熱帯の風景になっていくのね。植生が変わって、青々とした田んぼが広がっていて、ほたるが乱舞しているような世界があって。日本の田舎のようなところなんです。人の雰囲気も柔らかくなってきてね。東南アジアって穏やかでいいところなんだろうな、という印象を受けました。その後は、タイやカンボジア、マレーシア、インドネシアに行って。初めてミャンマーに入ったのは、大学4年で行った旅行の時でした。訪れた国の中で一番気に入ったので、何とかして、ミャンマーと関わって生きていこうと考えたんですよ。だけどね、留学も、その頃はまだ国費留学しか受け入れていなかった。自分で仕事をしようにも、そのための技能を持っていない。何をしたら生きていけるかと思った時に考えたのが、日本語教師だったんです。そこで、大学を卒業したあと、まずはすぐ高校教師になりました。教鞭を執りつつ、勉強して資格を取って、5年働いたところで、ミャンマーにある日本語学校が雇ってくれました。それが、ミャンマーとの本格的な関わり合いの始まりでしたね。」
日本語教師として訪れたミャンマーで
「日本語教師ということもあって、学生とはなるべく日本語で話していました。その一方で、僕自身はミャンマー語を勉強したいと思っていたので、独学で勉強しましたね。放課後には、学生が色んなところに連れて行ってくれました。先生と遊びに行くと、タダで日本語を教えてもらえるから(笑)。授業が終わると、『先生、喫茶店行きましょう!』って言って、コーヒーを1杯ごちそうしてくれて。本当に色んなところに連れて行ってもらったおかげで、こちらもミャンマー語の日常会話で困ることは、ほとんどなくなりました。逆に大変だったのは、授業時間が多すぎること。1週間に最大40時間も教えていたんですよ。平日で6時間、土日は8時間。それはキツかったなあ。」
「日本語学校の学生には、卒業後、日本に留学したり、企業で働いている子もいます。高田馬場にはリトルヤンゴンって呼ばれている、ミャンマー人がたくさん住んでいる地域があって。時々ぷらっと行くんだけど、『先生!』って声をかけられることがあるんだよね。でもこっちは学生が多すぎたから、覚えていないわけ(笑)。 覚えていないんだけど、向こうはよく覚えていて、『先生に漢字を習いました!』って言ってくれる。ガイドをやっている子も多いから、ミャンマーをちょっと旅行すると、また『先生!』って声をかけられます(笑)。」
出家体験
「ミャンマーでは、4月の中旬くらいに、新年を祝う水かけ祭りがあります。水をお互いにかけあって楽しむユニークなお祭り。でも、さらに面白いのは、その期間中に、お寺で出家する人が結構いること。厳しい戒律を守りつつ、修行に励んで徳を積むんですね。祭りが終わると、男女問わず学生の髪がなかったりして。『どうしたの?』って聞くと、『出家してました!』って。」
「ミャンマーの出家は、辞めたかったらいつでも辞められる。三日坊主っていう言葉の通り、本当に三日で辞める人、いるんだよね(笑)。それを見て、こんな簡単にお坊さんになれるんだ、って感じました。上座仏教の教えって、自力救済なんです。自分を救うのは自分自身しかいない、自分自身を変えていくことによってしか救われないっていう。僕自身、宗教には全く関心がなかったけれど、それは何だかしっくりきて。自分も出家してみようと思いました。ミャンマーがとにかく好きだったから、ミャンマー人のやることだったら、何でもやってみたいって思いもあったんだけど(笑)。?ミャンマー語の勉強もしたかったので、日本語教師を1年半くらいやってから、ヤンゴン外国語大学に2年間留学しました。やっぱりことばを勉強しないと、その国のことは理解できないと思って。そして夏休みの期間にね、出家したんですよ、2回。」
「1回目のお寺は厳しくてね、まず朝は3時起き。それから瞑想を4時くらいまでやって、そのあとは住職の説法を聞いて。朝ごはんを食べて、托鉢に出ました。大体2時間くらい、裸足で道路を歩いて。帰ってきたら、また瞑想。1日で合計7、8時間はやっていたかな。2回ともお寺は変えたけれど、ほとんど瞑想をしていました。」
「その時の僕は33歳。これから何をやろうかと考えている時期でした。このまま一生ミャンマーで暮らしていこうかなとも考えてはいたけれど、僕は大学の勉強が中途半端に終わっちゃったな、という思いもあって。そこで、京大の大学院に入って、仏教の研究を続けようと決めました。」
「僕らの頃は、研究の道に進むにしても、40歳を超えたら研究者にはなれないっていう考え方があったのね。だから、33歳で大学院に入ってどうすんのって言われたこともありました。でも僕は、何ていうかなあ、やり残したことを一つずつ潰していくような感じだったわけね。とにかくやり残したこと、心残りだったことをやりたかった。研究もその一つだったんです。35歳で博士課程に入った時は、中国語もミャンマー語もできたから、その真ん中あたりをやってみたら面白いんじゃないかって指導教官に勧められてね。それが雲南省の瑞麗。大学生の頃、初めて東南アジアに触れた町だったんです。そこで僕は1年あまり、住みこみでフィールドワークを行いました。」
—その後、研究員としての6年間を経て、昨年より津田塾で勤務されています。実は、津田塾とこんなつながりがあったそうです。
「縁があるなと思ったのは、母親が津田塾出身ってことかな。英文学科だったんだけど、やっぱり昔からものすごい量の課題を出されてたのね。予習しないと全く発言できなくて、完全に置いていかれるんだって。母はもう70歳くらいになるけど、今でも課題が終わらないっていう悪夢を見るらしい(笑)。 まさか自分がそこに就職するとは思わなかったなあ。ちなみに、津田塾に応募した時には、他にも誘われていた仕事があったんですよ。それは、ミャンマーのバイクの会社でね。山地の少数民族に、これからバイクを売っていきたかったんだって。『小島さんなら知り合いたくさんいるでしょ?ぜひ手伝ってください!』って言われて。それも良いかなあ、って思っていました。採用してもらえなかったら、僕はたぶんバイクを売ってたね(笑)。」
—先生がミャンマーをお好きなように、これだけは好き!と思えることを見つけたい。難しいように感じるのですが、どうすれば見つかりますか?
「そんなに難しいことかなあ。何で東南アジア研究をしているのかはよく聞かれるけれど……。記憶をたどっていくとね、やっぱりあの切符売り場にたどり着くんだよね。シルクロードに行く切符があったら、僕はたぶん東南アジアと関係なかった。だから、方法論があるわけじゃないと思います。色々な偶然が重なって、その中で、自分の心の中に引っかかってくるものがあって。その引っかかりから離れていくと、あーこれやり残したなあ、って思うわけです。そこから、自分はやっぱりこういうことをやってみたかったんだ、って気づいたり。僕には、少なくとも何らかの生きていく手段はあるわけだから、とにかく自分のやり残したことは全部やってしまおうっていう思いがありました。このやり方は少し危険だけど、その代わり悔いは残らないよ。」
「とはいえ、必ずしも最初から上手くいったわけではないけどね。文学からいきなり地域研究に進んだので、最初の頃はそれなりに大変でした。研究者になってからも、論文を書いたり研究発表しなきゃいけないし。でも、自分で選んだからには、やるしかない。やるべきことをちゃんとやる。ただそれだけです。」
—最後に、津田塾生に向けてメッセージをお願いします。
「まず、津田塾生は何より真面目ですよね。僕自身、非常勤講師として色んな大学で教えてきたけれど、こんな真面目な学生たちは珍しいと思います。あと感心するのは、実際に行動するっていうこと。他の大学の先生に津田塾生の様子を話すと、『え、そこまでやるの!』って感心するんですね。今どきの大学生は内向き志向であまり海外に行かないって言われているけれど、どんどん海外に出ちゃうでしょ。しかも普通に。そこは、自分たちの素晴らしさを、もっと自覚しても良いくらいだと思うんですけどね。」
「一方でね、発表とかレポートを見て、ちょっともったいないなと思うこともあります。せっかく自分の足で歩いて、自分の目で見て、人の話を聞けているのに、結論にいくと少し大人しくなってしまう。オリジナルの情報とか独自の考え方があるんだけど、研究者の考え方と違うと、フッとそちらに合わせちゃうんですね。僕ら研究者も叱られて批判されて、自分自身の考えを主張できるようになっていくんです。それは訓練。意識的にやっていけば、誰でもできるようになります。あとね、研究者の言うことは、絶対に正しいとは限りません。僕も研究者の端くれで、よく間違えるからわかるんですよ。むしろ研究者の方が間違っているんじゃないか、自分が見たのはこうですよ、ってことを訴えてほしい。自分の感性や考え方を大事にしていってください。」