津田塾探訪

津田塾探訪 #12 - ひとつだ史〜インカレ交流の歴史を辿る〜

女子大からのぞいてみたい、甘酸っぱい青春

「私もインカレサークルに入れば良かった……。」夕暮れ時、plum garden部室に響いたつぶやき。今回の記事は、とある編集部員(正しくは若干名)のそんな声から始まりました。インカレとは、インターカレッジの略で、他の大学の学生と合同で活動しているサークルのことをインカレサークルと呼ぶのです。女子大である津田塾大学では、そのままではもちろんサークルも女子だけです。しかし多くの学生は、インカレサークルで他大学の男子学生も含めたメンバーで活動をしています。それに対して、私たちplum garden編集部は津田塾の学生のみでの構成されている団体。インカレサークルへの憧れは、無いフリをしてみても隠しきれるものではありません。

津田塾におけるインカレサークルは、その大半が一橋大学との交流を行っています。私たちは大学入学時から、一橋の学生が津田塾の小平キャンパスにサークル勧誘に来ていたり、中庭で卒業アルバムのサークル集合写真の撮影をしていたりするのを見ていて、津田塾と一橋の関係はなんだか当たり前のものと思っていました。でも、インカレサークルを羨ましがっていたら、ある時純粋な疑問がむくむくと湧いて来ました—「そもそも津田塾と一橋の関係っていつから始まったんだろう?」

「これって調べたら、記事になるんじゃない?」そしてそこからは超展開。どうせならば、と、一橋大学でウェブマガジンを運営する『ヒトツマミ』編集部(注1)にコラボ企画を申し込みました。「津田と一橋の関係」について、それぞれの編集部がお互いの視点から記事を書く、ということでコラボが成立。plum gardenは歴史にスポットを当てた『ひとつだ史』を担当し、現在の交流についてはパンチの効いた記事がお得意なヒトツマミさんが担当することになりました。というわけでこの記事は、津田塾と一橋で紡ぐひとつの歴史書となるのです!記事の最後には、ヒトツマミさんの記事に飛ぶリンクを貼っています。そちらと合わせて『ひとつだ史』が完成しますので、どうぞご一緒にお楽しみください。

(注1):一橋大学広告研究会HASCが運営する一橋生のための総合情報サイト。コンセプトは「国立発!宇宙ぶっとびメディア」。日々、魅力的な記事を発信している。『ヒトツマミ
 


歴史を辿る・都心から小平へ

津田塾大学のメインキャンパスは東京都小平市にありますが、そこから徒歩10分程度の距離には、一橋大学の「小平国際キャンパス」があります。このキャンパスは、現在は留学生を含む学生の宿舎として利用されており、授業は行われていません。というわけで一橋の学生は、少し離れた国立のキャンパスで勉学に励んでいるのですが、実はかつては小平キャンパスでも授業が行われていたのです。1996年に廃止されるまで、ここは教養課程のキャンパスとして、1・2年の一橋生が通う場所でした。そういうわけで、津田塾と一橋はお隣さん同士だったのです。学生同士の交流はその当時から盛んだったらしく、津田塾と一橋のキャンパスを繋ぐ玉川上水沿いの道は、津田塾生と一橋の男子学生の間で「ラヴァーズ・レイン」(恋人たちの小径)と呼ばれていたそうです。

どのようにして津田塾と一橋はお隣さんになったのでしょうか。両大学が小平に来るまでの過程を辿ってみましょう。

津田塾が小平にやってくるまで

津田梅子がブリンマー大学への留学から帰国後、1900年に津田塾の前身である「女子英学塾」が、麹町区一番町(現在の千代田区)に開校されました。その後、元園町(現在の千代田区)から五番町(現在の千代田区)へと校舎を転々と移し、順風満帆のように見えたのですが、1923年の関東大震災で五番町にあった校舎が全焼してしまう事態に。当時は、「女子英学塾」復興のためアメリカで募金を呼びかけるパンフレットが作成されたり、チャリティー・コンサートが開催されたりしたそうです。しかし幸いなことに、関東大震災が起こる前年1922年に東京府下北多摩郡小平村(現在の小平市)に学校用地を取得していたため、1931年に小平の新校舎に移転し、そのまま小平の土地へ根付くこととなりました。 

「女子英学塾救済チャリティ・コンサート・プログラム」。上が焼けてしまった跡の写真。右ページの中ほどには、”Recital”の文字が確認できます。 画像提供:津田塾大学デジタルアーカイブ

「『校舎正面』The Main Building from the Entrance Gate」 当時作成された女子英学塾小平校舎竣工記念アルバムより 画像提供:津田塾大学デジタルアーカイブ

一橋が小平にやって来るまで

一橋大学が創立されたのは1875年。森有礼が東京銀座尾張町に「商法講習所」を私設したことから一橋大学の歴史は始まります。その後、木挽町(東京都中央区銀座の旧町名。現在、歌舞伎座があるところ)に移転し、東京府立に。1885年には、東京外国語学校と合併し、神田一ツ橋へと移り、名前も「東京商業学校」に変更されました。そして時は流れ、1923年。関東大震災が起こります。津田塾と同じく、神田一ツ橋にあった「東京商科大学」(現一橋大学)も甚大な被害を受け、建物の大半を失うことに。しかし、その翌年1924年には早くも本科の授業を神田仮校舎において開始することになり、同時に予科(注2)石神井の仮校舎に移転。次いで1927年には、商学専門部などが国立仮校舎に移転され、1933年に小平に予科が移転されました。

その後、1947年に学校教育法(注3)が施行されます。1949年には、「東京商科大学」改め、「一橋大学」に。新制大学として再発足しました。その際にできた前期・後期のうち、前期を小平分校が担うことに。一橋生は小平で、一般教養課程を1・2年生の時に学び、後期を国立で学びました。しかし、四年一貫カリキュラムの必要性が次第に求められるようになります。

その結果、1996年に小平分校は廃止される事となりました。その後の使い道が審議会で検討された結果、2003年に「小平国際キャンパス」として息を吹き返しました。現在、国際キャンパスは、一橋大学に在学している日本人学生・外国人留学生及びその他大学の外国人留学生の宿舎として主に利用されています。


(注2)大学令、または各帝国大学官制により、学制改革による廃止まで設置された高等教育機関のこと 
(注3)学校制度の基本を定めた法律。小学校〜大学までの6・3・3・4制教育が実施されるようになった。出典:
「新制大学の成立から現代まで」一橋大学機関レポジトリHERMES-IR

「小平分校」 画像提供:一橋大学機関リポジトリHERMES-IR

「小平国際キャンパス」 画像提供:一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR

創立者同士の不思議な縁

実は、津田梅子と森有礼には不思議な関係性が。津田梅子が岩倉使節団と共に齢6歳にしてアメリカに留学したのは有名ですが、その時の駐米代理公使が森有礼だったのです。在米留学生の監督が主要任務であったため、津田梅子含む5人の少女たちのホストファミリー探しに駆け回ったとか……。津田塾と一橋との関係は、実はこの時から始まっていたのかもしれません。


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学生交流の歴史

小平に両大学が移転された後、学生同士の間ではどんなことがあったのでしょうか。当時の津田塾と一橋との関係を調べていくうちに、ある2つの新聞記事と出会いました。
 

学徒出陣

1つ目の記事のタイトルは「学徒出陣 励ました歌声」。1943年、世の中は、第二次世界大戦の終盤を迎えていました。戦局の悪化に際して兵力不足を補うため、26歳までの大学生に認められていた徴兵猶予は引き下げられることに。その結果、20歳以上の学生も徴兵の対象となりました。この記事は、若くして学徒出陣を控える東京商科大(現一橋大学)予科の男子学生のために、津田塾専門学校(現津田塾大学)の女子学生たちが秋の夜、こっそりと寮を抜け出し、キャンドル片手に無事を祈って賛美歌を歌ったというもの。最後には「海行かば」(注4)を涙ながらに大合唱して別れたようです。一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR内の資料によると、当時一橋大学から学徒出陣した学生は1268名。誠に辛く悲しいことですがその内87名が戦死したとされています。

実は、この話には続きがあり、お互いの名前も知らずに別れた当時の学生同士が、1999年5月に再会する機会が設けられたそうです。当時寮を飛び出し、学徒出陣の学生を励ました津田塾生のお一人が「友人に思い出話を語ったところ、友人の妻がたまたま津田塾OGで、その妻の先輩が歌声の主の一人だった」ことから、一気に話が広がったそう。一体どんな思いで再会したのでしょうか。インタビューを受けた当時の津田塾生のお一人は、「軍人でもないのに、戦場に駆りたてられる学生らが気の毒で、何かせずにはいられなかった」と、当時の胸の内を話していたそうです。楽しいことがこれからどんどん待ち受けている20歳の頃に、戦地に行かねばならなかった男子学生、それを見送った人々の心中を考えようにも、平和な世の中で生まれた私たちには想像を絶するものがあります。少しでもその感覚に近づこうと、NHKのサイトで「海行かば」の曲を視聴してみました。56年ぶりの再会を果たした津田塾と一橋の学生たち。「海行かば」の力強い歌声を聴きながら彼ら彼女たちに思いを馳せると胸が締め付けられるばかりです。

(注4):当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。第二の国家として愛唱されたとされる。
(読売新聞「学徒出陣 励ました歌声」1999年5月10日)

 

寮の行事「ストーム」

2つ目の記事は、寮生同士の交流に関するものです。かつて津田塾と一橋の寮生の間には、「ストーム・ブリーズ」と呼ばれる行事がありました。

津田塾の女子寮に、一橋大学の男子寮生たちが「あらし」のごとく訪れる伝統行事が「ストーム」です。そして、「ストーム」のお返しに津田塾生が一橋寮を訪問するのが「ブリーズ」だったのです。上京したての若者の出会いと交流の一環として始まったこの行事は、過去には新聞にも何度も取り上げられていました。そもそもこの「ストーム」の起こりは、関東大震災を機に、一橋と津田塾、両大学が都心から小平に移転した1930年代といわれています。当時、各大学の男子寮では、新入寮生の度胸試し的な行事が行われる慣習がありましたが、それが一橋(いっきょう)寮では「お隣の女子大の寮に行ってくる」というものになったようです。当初は「交流の一環」でしたが、もっぱら一橋大生が塀の外から大声で叫んだり、守衛に追っかけられたり、という形だったそうです。

1990年代後半には、突然押し掛けるのではなく、津田塾当局に許可申請書を出すなどして、大学にも認められた行事として定着しました。しかしこの時代でも「お約束」として津田塾の正門は閉じられており、一橋の男子学生は門を飛び越えて敷地内の寮へと向かいます。そして男子学生の訪問を待つ「幸せのピンクリボン」が巻かれた部屋に両大学の学生が集まり、小一時間ほどの会話を楽しむのです。帰り際には、記念に女子学生のハンカチなどをもらうのが慣例でした。

「男子学生が女子大の門を乗り越え、女子寮に入る」とは、現代の基準ではなかなか考えにくいものです。今はもう廃止された「ストーム・ブリーズ」は、社会制度がまだ未整備だった時代だからこそ許されたものなのかもしれません。

(朝日新聞「「男子禁制」の津田塾寮へ 一橋寮の80人「ストーム」」1997年4月17日 読売新聞「45分間の"嵐"今も健在」1998年4月26日)


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インカレサークルの歴史検証、それは時間と体力との戦い

今回の記事制作において一番大変だったアルバム調査。一つ一つ丹念に調べました。

さて、「インカレ羨ましい」から始まった今回の企画、いよいよここからが本番です。私たちはインカレサークルの歴史を調べてみることにしました。資料として用いたのは、津田塾大学の卒業アルバムです。1972年のアルバムから、サークルごとの集合写真が載るようになりました。それをチェックしていけば、いつごろからどんなインカレサークルがあったのか、がわかるだろうと思って調べ始めたのです。

ところが、やってみるとこれは大変な作業でした。1972年から2017年までの、計45年分のアルバムを一つ一つ開いて、載っているサークルの写真をつぶさにチェックしていきます。「集合写真に男子学生が写っている」か、「サークル名に『一橋』が含まれてる」ものを「インカレサークル」とし、その数を数えていきました。調べたサークルの累計は2877になりました。2週間ほどアルバムと格闘して、結果を1つのデータベースにして分析してみると、色んな傾向が見て取れることが分かりました。10年ごとにグラフ化したので、歴史の流れと共に詳しくみていきましょう。まずは1970年代から。
 

1970~1979
1970年代は、「インカレサークル」と判断できるサークルが殆どありません。そもそもサークルの数自体がさほど多くないのですが、これは70年代後半に向けて増えていきます。1960年代中頃から盛んになった大学での学生運動は、72年のあさま山荘事件以降急速に縮小していきます。70年代後半にサークルが増えていくのは、学生の関心事が政治・社会運動からノンポリのサークル活動に移行して行く過程を反映しているのではないでしょうか。

1980~1989
サークルの数は増え続け、その中を占めるインカレサークルの割合も増加していきます。この時期は、特にテニスサークルがひとつのブームであったようです。例えば1984年には、テニス関連のサークル数は前年の倍になっています。

1900~1999
増え続けたサークル数は、96年に108サークルというピークを迎えます。この時期は、「うら若き乙女の会」「もみじ饅頭を偏食する会」などなど、個性豊かなサークルが沢山ありました。しかしサークル数は、その後急激に減少していきます。この減少開始は、バブル崩壊後、デフレが始まり、人々が「生活が悪くなった」と感じ始めた時期とぴったり一致しています。インカレサークルは不景気に強かったのか、あまり減らずに、全体における割合を増すことになりました。
 

2000~2009
ほぼ変化のない、ある意味安定した10年です。インカレサークルの割合は40%程度で安定しています。

2010~2017
リーマンショックに端を発する不景気、そして東日本大震災などの影響か、2011年にはサークル数が1976年以来の40台に落ち込みます。しかしこれはすぐに回復し、2013年以降は先の10年とほぼ同じ水準となっています。

インカレ交流の歴史:まとめ

津田塾と一橋のサークル活動において、学生同士の交流は70年代から行われていましたが、「インカレサークル」としての形態をとっていたものは当時は殆どなかったことがわかりました。おそらく、個人個人が自分の意志で他大学のサークルに参加していた、ということなのでしょう。しかし、80年代終わりから90年代にかけて、名前や写真に写るメンバーから、はっきりとインカレだとわかるサークルが一気にその数・割合を増やします。バブル景気を背景とする、明るくお祭りのような世間の空気に影響されていたのでしょう。バブル崩壊後は、少人数の個性的なサークルが消え、その後は数の増減があまり見られなくなりました。おそらくこの時期に、インカレを含むサークルの活動形態の「型」が出来上がり、それが現在でも続いているのではないでしょうか。

おまけ:ピースサインの発展

この調査では、一つ一つの写真をつぶさに眺め、男子学生がいないかチェックしています。でも、70年代のアルバムを調べていた時、男子もいないけども、ピースをして写真に写る学生がほとんどいないことに気がついたのでした。じゃあどうしていたのかというと、ほとんどの学生は膝に手を添えたり、手を後ろで組んだりして佇んでいました。仲間と写真を撮る時、条件反射でピースしてしまう私たちにとってこれは中々の衝撃で、調査のついでにピースサインの有無もチェックしていくことにしました。

結果をみると、アルバムでのピース初出は1976年だとわかりました。世間の流れと照らし合わせてみると、日本では1972年に、カメラのCMで井上順さんがピースをしたことからピースサインが流行したそうです。このころからピースサイン自体は存在していたのです。しかし、集合写真でピースする人はほとんどいないまま、時は10年20年と流れます。そしてついに2003年に、第一次ピース爆発とも言える急激なピース率上昇が起こります。2010年には、サークル集合写真では、ほとんどの学生がピースをするように。割合は一気に80%までに上がりました。

ピースサイン自体は70年代からあったのに、大学生がサークル集合写真でピースするようになるまで30年かかっている、というのがとても面白かったです。


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これからも続いてゆく、いや続いていってほしい!『ひとつだ』

津田塾と一橋の交流の歴史、調べてみたらすごいボリュームの記事になってしまいました。この記事が、津田塾と一橋の卒業生の皆様が、当時のことを少しでも思い出すきっかけになりましたら嬉しいことこの上ありません。小平移転から学徒出陣、ストーム・ブリーズ、インカレサークル……。時代と共に様々なことがありました。一橋大学との交流とは無縁だった私たち編集部員も、ひとつだの関係を調べて行くうちに、甘酸っぱい青春を疑似体験できたような、そんな気がしています。

『ひとつだ史』は、まだこれでは終わりません。HASCさんが運営する『ヒトツマミ』と合わせて読むことで1つの歴史書が完成します。ヒトツマミの皆さん、準備は大丈夫ですかー?あっ、準備OKとの声をいただきました。どんなことになるのか。こちらにリンクを貼りましたので、ぜひ覗いてみてくださいね!
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