津田塾探訪

教師・津田梅子の信念 〜教え子たちの言葉から〜 前編

<開校当時の津田梅子>



「あのまあるい拳を固めて机を激しく続けざまに叩きながら「ノウ、ノウ、ワンスモア、ワンスモア」と荒々しく叫んで、何十返となく発音を繰りかえさせられた、あの二十年前の先生……あの真剣な、命がけの熱心さ、生徒の出来不出来に伴う子供らしい不機嫌、無邪気な笑ひ!先生の生命はあの中にあったのだ。」


——山川菊栄 女子英学塾『会報』第三五号「津田梅子先生記念号」

今春、本学の創設者である津田梅子が新5000円札の肖像に選ばれるというニュースが発表されました。津田塾大学の公式Webサイトには、日本における女子教育に大きく貢献した津田梅子が、どのような経緯で女子英学塾(津田塾大学の前身)設立に至ったのかについて紹介されています。
参考:「津田塾の歴史」

このplum gardenの記事では、「教師としての津田梅子」の姿に迫りたいと思います。文明開化華やかなりし明治・大正の時代に、津田梅子は女子英学塾で教壇に立ち、学生の指導にあたっていました。「歴史上の人物」というイメージが強い津田梅子は、実際どのような「先生」だったのでしょうか。そして、津田梅子の想いは今日の津田塾大学にどのように受け継がれているのでしょうか。

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1964年の同窓会会報(No.59「津田梅子先生生誕百年記念号」)に、「座談会・津田先生を語る」という特集が掲載されていました。津田梅子から直接学んだ教え子たち13名(4回卒<1906年>から18回卒<1920年>)が、在りし日の思い出を語っています。青春を女子英学塾で過ごした卒業生たちが、何十年も前の津田梅子との日々を振り返り語るという座談会(4回卒・第2代学長の星野あい先生は紙上参加、司会は18回卒・第4代学長の藤田たき先生)。

当時の息づかいを感じさせるいくつかのエピソードの抜粋と共に、「津田梅子先生」の姿をゆっくりと紐解いていきましょう。

注:引用部分については原文のまま抜粋しました。

<東京大震災以前の女子英学塾校舎>麹町五番町

厳しく、真剣に

卒業生たちは、教室における津田梅子について、次のように語っていました。

「英作文の時間は大ていのとき涙が出ましたね。文法もむずかしかったのですけれど、先生は内容のことを大事になさって、どこに重点をおくかを書かなくてはということを例を引いて教えてくださいましたね。たとえば、丸善へ本を買いに行くことを書くときに、あの五番町の石段を二つ下りて、左へ五歩くらい歩いてそれから右へ行ってなどと道筋のことばかり詳しく書きますか、なぜ丸善へ行くのか、どういう目的でどんな本を買いに行くかをちゃんと書くでしょうというように、いろんな面から深く考えることを教わりましたね。」 

「理屈をいうだけではだめで、例を挙げて説明することを要求されました。日露戦争中、すべて倹約して食物もぜいたくしないようにしなければと書いたときのこと、先生は日本人は倹約できるほど食べていないから、ぜいたくしないためには肉を止めて、代わりに蛋白質のちゃんとあるたとえば豆腐を使ったらいいというふうに例を挙げて書けといわれましたよ。」

<勉学に励む学生たち>

「英作文の内容の一部分をとって、一時間くらいディスカッスしたことがありましたね。思想を培うのに役立ちましたね。考え方がおかしかったら、先生はその人や机のところに行って机を叩いておっしゃるでしょう、クラス全体が縮み上がったものですよ。」

「教授法のとき、ある人が黒板に書くスペリングを間違えたところ、先生になるべき人が黒板に字を間違えるとは何事ですかと、これは皆の連帯責任だというので、クラス中がこっぴどく叱られました。」

いい加減な訳をした学生に「字引を引いてごらんなさい」と字引を投げつけたりしたこともあったという話もありました。津田梅子は厳しく、しかし真剣に、一人ひとりの学生たちと向き合っていたようです。内容に重点を置き「深く考えさせる」という姿勢は塾の伝統となり、現在の津田塾大学の記述形式を中心とする入試問題や期末試験にも受け継がれています。



教室外での指導

 
津田梅子の熱心な指導は、授業の外にまで及んでいたようです。

「私の級で就職口まできまった人を卒業させなかったことがありますよ。大阪へ就職がきまり、荷物もつくってあり、あと四、五日で卒業というときでしたのに、ボーイ・フレンドと道を歩いているところを後醍院さん(※ 当時の教職員の一人)にみつかったのですね。(略)先生はお母さんを呼んでお聞きになったのですね。もうどなたかと結婚の約束があるかどうかを。ところがお母さんのほうはびっくりして、だれにもまだ約束はしていないということでしょう。先生は親の承諾があればいい、しかし親に黙って交際している人は卒業させられませんといって頑としてお聞きにならないのです。皆が同情して、相手の人に結婚する意思があることをたしかめてきて、先生に嘆願したのですが、だめでした。先生はこんなふうに、曲がったことが大嫌いでしたね。」

「男女交際のことですが、友だちのお兄さんが大学生で角帽を被って迎えに来るのですね。それについても、知っている人はいいけれど、誤解されるといけないからいっしょに歩かないようにいわれていましたよ。」

「私はいつか寮でお茶碗を並べる当番のとき、鼻歌を歌いながらしていたんです。先生がそのときちょうど外の庭を歩いていらしたのですね。仕事をするときは黙ってするものだと教えられましたよ。」

「先生はことばを大事になさって、そんな日本語はないとお直させになったりしましたね。」


身だしなみにも厳しかったようです。

「学校へは袴をはいて行くのですが、家へ帰ると帯をしてちゃんと出かけなさいといわれましたね。」

卒業式に高級な江戸褄(えどづま)の裾模様をあつらえた学生四人は「こっぴどく叱られ」ました。「親のお金をもらって幸せに学校生活を終えられるのだから、卒業のときもあり合わせの着物を着るのですよ」と言われていたのに約束を守らず、「不正直でいうことを聞かない人は嫌いだ」ということで、四人とも着物を着られなかったそうです。

「あの時代に世に先がけて女子の高等教育の学校をお立てになったのですから、世間の目に対する心配りもありましたでしょうね。」
当時としては類を見なかった「女子に対する高等教育機関」を設立しながらも、津田梅子は学生たちが日本社会の規範から大きく外れることのないように気を配っていたようです。

優しく、親身に

津田梅子の真剣さには、ともすれば怖いという印象を抱かれるかもしれませんが、学生に親身になって寄り添い、融通を効かせて学生を助けるという場面もたびたび登場します。

「ある雪の日、電車が数時間止まってしまって困っていましたら、先生がお家に呼んでくださって、あたたかい部屋でもてなしてくださったことを覚えていますよ。また卒業式の前、咽喉を痛めて休んでいましたら、わざわざ小使いさんをよこしてどんな様子かを尋ねてくださったこともあります。」

「英語の試験に風邪で休んだことがあったのですよ、その試験を受けないと及第できないのです。夜、先生が部屋に呼んでくださってそこで試験を受けて及第させてもらいました。嬉しかったですよ。」

学生たちのお小遣いの調査をし、平均より少なかった学生の親に「もう一、二円足してくださらないか」という手紙を送ったこともあったようです。また、就職のお世話もしています。

<寄宿舎の様子>

「私のクラスは二〇人のクラスだったのですが、先生が弱い者をも何とかその者のよいところをひき上げ、ひっぱり出そうとしてくださったことを本当にご恩に思っております。三月の試験間際に先生に呼ばれますとさては落第するかもしれないとびくびくものでしたが、卒業間近に呼ばれまして私がまいりましたところ、先生はにこにこしていらして、あなたは就職の志望届も出していないが、教師になって行く気はないか、徳島と山形県の米沢と二つあるが、どちらがいいかと聞かれたのですよ。まあ、私はびっくりして涙が出て返事ができないのですよ。」

「そのとき先生は頭が悪いからといって卑下する必要はちっともない、あのモーセの話を知っているでしょう、モーセがどもりだからと言ったら、その口はだれがつくったのかエホバならずやという話があるじゃありませんか。信仰と愛と忍耐とがよい先生をつくるんですよとおっしゃって、少なくとも二年はいなさいといわれました。私はそれなら三年いようと思い、ちょうど三年いました。(略)秀才だけがよい先生になれるのではありませんとおっしゃってくださいましたが、先生が弱い者に希望を持たせてくださったことを本当に感謝しています。」

なかには結婚をお世話された学生もいました。避暑先の沼津に呼ばれ、一週間、寝食をともにした卒業生です。
「同じ部屋にごいっしょに休むのですから、これはたいへんなことになったと思ったのですよ。それがちっともたいへんでなくて、しまいには五目並べまで教えていただいたりして……私が負けてばかりいたのですが。先生は規則正しい方で時間がきまっておりましてね。お昼には散歩したり、買物をしたり、夜、時間が来るとお休みなさいとお祈りして床についたのですよ。そのとき、私がお茶やお花を習っている話をしましたところ、それがどうやら先生のお気に入ったらしくて、そのあとで結婚の世話をしてくださいましたよ。まああの一週間、テストされていたわけですね。先生はとことんまで本人を知らなければ学校の成績だけでは分からないと考えていらしたらしいですね。」

津田梅子は教え子たちが各地で活躍することを喜んでいたようで、外国に出かけた学生には「いちいち、しるしがつけてあって」、名前も何もかも覚えていたそうです。
「日本国内でも、卒業生の赴任地には(日本地図の上に)旗が立ててありましたよ。」

他には、卒業から数年後、親の看病を終えてしばらく仕事を探していた時に、職を紹介してもらったことなども語られていました。学生たちの生活に細かく気を配り、将来の道を切り開けるように手助けをし、その後もずっと見守る津田梅子の様子が伝わってきます。津田塾大学には、今でも学生たちのことを気にかけて、色々な相談に乗って下さる先生方が多いと感じますが、これも津田梅子がつくった伝統なのかもしれません。



時に見せる茶目っ気

また、茶目っ気のある津田梅子の様子が目に浮かぶお話もありました。

「私がブリンマー大学入学前に、カークス・スクールで勉強しておりましたとき、津田先生が外遊していらして、先生はミス・カークと仲がよいので学校で泊られたのですよ。ミス・カークが「あい(注:私)の発音に変なところがある。たとえば、no, cowの発音が変だ」といわれたのですね。そしたら津田先生がご自分の顔を指してこれなにと聞かれるのです。「カオ」と答えますとcowもそれでいいとおっしゃって、大笑いでした。」
と、後に学長となる星野あい先生は振り返ります。
「寮へは先生は毎週土曜日いらして、夕食を寮生といっしょになさいましたね。食事が終ると皆と団欒して、ゲームをしたり、カントリー・ダンスをしたり……。」

「寮でお食事をごいっしょのときなど、ずいぶん常識を養なわれましたね。……先生はさっきの茶目っ気の話と通じますが、よくお化けの話をなさいましたよ。それも電燈を消してね。いつか印度人で片腕をなくした人がお化けになって出る話をなさったときは、こわくてこわくて、その晩、三人ぐらいずつ組んで歩きましたよ。」

「一面、実にこどもらしいところがあって、いつか先生に呼ばれ、震え震え行きましたところ、先生はにこにこして、ご自分が米国へいらしたときお召しになっていた可愛らしい着物、免状など並べてみせ、コーヒーをごちそうしてくださいましたよ。こんなときは先生は稚気まんまんという感じでしたね。」
厳しいけれど、お茶目で面倒見の良い、とても魅力的な先生だったのですね。土曜日の午後の団欒は学生たちにとって、かけがえのない時間になったことでしょう。

教養と信念

そして、津田梅子の教養の深さや、教育や女性についての信念に、強く感銘を受けた学生も多かったようです。

みんなで予習しても、さっぱりわからなかった英詩の授業でのこと。

「びくびくしながら教室へ出たところ、先生が入っていらして本をぱっと教卓の上に置いたまま、手ぶらで大使館のほうの窓のところへいらして、空を見ながら丸い手で調子をとって、はじめから朗誦なさったのですよ。そしたら、おどろいたことにはあんなに調べてもわからなかったところがさっとわかって、およみになっただけでわかるのですから、これは先生は大したものだと感動しました。」

「そうですね。先生がおよみになると光が灯ったようにわかりましたね。いっしょに勉強した者たちが、喜びで顔を見合わせたものです。」

「先生は教えることの十倍は知っていなければとおっしゃっていましたね。」

「あるとき先生がいきなり壇の上に立ってふらんす語(※原文ママ)で何かおっしゃってお指しになったのですよ。だれも答えられないでしょう。そしたら先生が、外国語を教えるときはリピート、リピート、ひたすらこれ忍耐だと教えてくださいました。とにかくいきいきしていましたね。」


<開校当時の協力者たち。左から津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松>

倫理学、国語、カレント・トピックス、漢文、心理学、などさまざまな学科内容があったようです。

「漢文もあれば心理学もあり、昔としてはずいぶんありましたよ。また書かされる論文の題が『女子の政治上、社会上の地位について』など、いま必要なことばかりでしたね。日本人でいちばん尊敬する人の伝記を書かされたりもしましたよ。」

「男女を比較してどちらがすぐれているかという作文の題が出て、両方に別れて討論しましたよ。男がすぐれているというと先生はあまりご機嫌がよくなくて、だめじゃありませんかといわれましたね。」

「大正七、八年のころのことでしたかしら、女の飛行士が来たことがありましたね。そのとき、「皆さんよく覚えておきなさい。女ですよ」とおっしゃったのを忘れません。女でも男と同じようにやらなくちゃということを指し示していらっしゃいましたね。」


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教え子たちが語るエピソードからは、ある時は厳しく真剣に、またある時は優しく親身に学生たちと接していた津田梅子の姿が浮かび上がってきます。これは、津田梅子のどのような信念に根差したものだったのでしょうか。後編では、現在の津田塾大学の学長であり、津田梅子の研究者でもある高橋裕子先生に、お話を伺います。
来週の公開をお楽しみに!

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