津田塾探訪

教師・津田梅子の信念 〜教え子たちの言葉から〜 後編

*本記事は前編・後編に分けて掲載しています。前編はこちらからご覧ください。


先週公開した前編では、教え子が語るエピソードをもとに、教師としての津田梅子に迫りました。今回、そのエピソードから窺える津田梅子の信念について、現在の津田塾大学の学長であり、津田梅子の研究者でもある高橋裕子先生に、お話を伺いました。

津田梅子の厳しさの裏にはどのような思いがあったのでしょうか?

まず、女性に制約としてあった境界線を越えられるような、力強い女性になって欲しいという思いでしょう。女性がこんなことはできないと思われていても、その境界線は人々によって作られたものだから、越えられるものです。例えば、「女の飛行士」の話もそうですよね。

でも、それと同時に、社会の中から弾き出されるのではなく、社会に受容される人になってもらいたいという考えもあったのです。親に黙って交際していた学生に津田梅子が厳しい処分を下したという話がありましたよね。当時の社会規範では、女性が親に黙って男性と交際するのは、眉をひそめられるようなことだったのでしょう。 

津田梅子の開校式式辞にも、「何事によらずあまり目立たないように出すぎないように、いつも淑やか(しと)で謙遜で慇懃(いんぎん)であって頂きたい。こういう態度は決して研究の高い目的と衝突するものではありません。婦人らしい婦人であって十分知識も得られましょうし、男子の学び得る程度の実力を養うこともできましょう。」という言葉がありますが、社会に受容されながら、境界線を越える女性になって欲しいと考えていたのだと思います。

優しくユーモアのある先生だったいうエピソードも語られていました。

ええ、そうですね。ユーモアのセンスもあったのでしょう。

ところで、彼女が留学して学び、後に模範としたリベラルアーツ教育には、学生たちと生活を共にすることで、全人的に学生たちの情操を育むという理念があったのです。ですから、津田梅子が留学したブリンマー大学などでは今でも、キャンパスに学長が住むことを義務付けているんですよ。

エピソードの中に、土曜の午後を寮生たちと過ごしたという話がありましたよね。そこには、余暇も一緒に楽しんで、人間の成長の糧になるような時間の楽しみ方を教えるという意味もあったのです。教室では読まないような怪談話をしたり、体を動かすためにダンスをしたり。ただ大騒ぎをするというのではなく、もっとインスピレーショナルな豊かな経験をしてもらいたかったのでしょうね。でも、それはただ教育のためというだけではなく、育っていく若い女性たちと過ごす時間を津田梅子自身が本当に心から楽しんでいたのだと思います。

津田梅子自身も、心から楽しんでいたのですね。

そう、本当に心から––––。

そして、自分の教え子が全国に、時には海外にまで巣立っていくことに、深い喜びを感じていたんです。日本地図を用いて、教え子の赴任地に旗を立てていたのも、自分の後に連なる女性たちが全国に広がっていくという嬉しさからだったのでしょうね。

そういえば最近、テストの点という数字だけでは、生徒の学力等を測れないという話も出てきていますよね。津田梅子も、テストの点数という一面だけではなく、より総合的な視点で学生たちの力量を見ていました。一人ひとりのポテンシャルをじっくりと見極めながら、その学生にはどのようなキャリアパスが向いているかを考えていたんです。教師に必要なのは学業での優秀さだけではないと話したことや、仕事のみならず結婚のお世話をしたことなどにも、一人ひとりのライフスタイルを尊重するという信条がよく表れています。

教える人は、学生の「十倍知らないといけない」というお話もありましたが、それは学問の知識を広く身につけている必要があるということなのでしょうか?

もちろん学問的知識を広く身につけている必要はありますが、それに加えて教えるというのは、ただテキストの中に書いてあることを教えるだけでは駄目なのですよ。人生の先輩として、インスピレーションを与えられる人でないといけないんです。

自分がどう生きてきたか、これからどう生きていくか、この与えられた生をどう使おうとしているのか。

テキストの中にあるものを、自分の経験から滲み出る(にじみでる)ものと併せながら、何を語ることができるか。それが重要なのです。「十倍知らないといけない」というのは、もちろん専門の知識のことでもありますが、それだけではなく人間として豊かである、そういう人として成長していくことなのです。

津田梅子は真に教養のある方だったのですね。

彼女は大変な読書家で、生涯を通じてたくさんの本を読んでいました。それだけではなく、よく海をわたって旅をする人でもあったのです。自分自身が楽しんで、広く深く学び続けて、たくさんのことを経験しながら自分の生をどう生きるかを考えていました。 

そして、その生き方を教え子にも示したのです。書くことを重視したのは、自分の頭で考える人になって欲しいという思いがあったからでしょうし、専門知識外の色々な学問を学ばせたのは、広く深く学んでほしいという思いがあったからでしょう。 「学生たちには、語れるものをしっかり持っている人になってもらいたい。」そういう願いがあったのです。

最後に何かメッセージをお願いします。

本学卒業生の芥川賞作家・大庭みな子が執筆した評伝『津田梅子』が新装版で復刊され、その巻末解説を書きました。本書の最後の頁にある大庭みな子の言葉と、引用されている星野あい先生(本座談会にも参加していた第2代学長)の一首を紹介します。

星野あい先生の歌ですが、津田梅子も同じ思いだったのではないでしょうか。

「星野あいの『小伝』には、梅子から引き継いだ塾のその後の歩みが、眠っている梅子の息の続きのように語られている。『小伝』の終わりに挙げられている歌の中から一首を選び、在りし日の星野あい先生の面影に重ねて、これよりなおもめぐり生まれ出ずるものへの祈りとする。」

夫(つま)も子もなき身なれどもわれたのし教え子あまた身近にめぐる

——大庭みな子『津田梅子』朝日新聞出版(2019年7月)


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新紙幣のニュースがきっかけで始まった今回の記事、いかがでしたか?

「教師としての津田梅子」を調べていくうちに、津田梅子の意外な一面を知り、津田塾に今でも受け継がれている「建学の精神」の根底にあるものに触れることができたような気がします。みなさんにも、日本史の教科書に出てくる人物というだけではない、生身の人間としての津田梅子の姿を想像して頂けたら幸いです。