人生と学び

津田塾大学で見つけた、私らしく生きる道 高橋裕子先生

津田塾大学には、自分らしく輝ける道を歩んでいる卒業生が数多くいます。卒業生には、「研究者」として、学問を究める道を選ぶ方も少なくありません。本年度より津田塾大学学長に就任された髙橋裕子先生も、そのお一人です。髙橋先生は本学英文学科の卒業生。アメリカ社会史、および津田梅子の研究者として、キャリアを積み重ねてきました。髙橋先生が研究者という道を選んだきっかけは、どこにあったのでしょうか。そして、その道を歩んでいく過程で、どんなご経験をなさり、何を感じ、想っていらっしゃったのでしょうか。
今回の『人生と学び』では、髙橋先生に学生時代のお話をうかがい、津田塾大学の卒業生として、一人の女性として研究者というキャリアを選んだ理由と、そのキャリアを通して得たものを探りました。

 

外の世界に触れて、生き方を考える

-津田塾大学に入学しようと思ったきっかけは何ですか。

「高校時代の英語の先生の影響で、英語を通して新しい考え方や思想に触れることの楽しさを知ったことですね。その先生が使ったテキストは、高校生にとって非常に難しい構文で書かれていました。けれど、自分が触れたことのないようなアイデアに触れることが、とてもワクワクするものだと気づいたんです。大学の受験勉強をしなくてはいけない時に、その辛さを超えた勉強の楽しさを感じました。言い換えれば、歴史や文化、文学も含めて、英語という言葉を得ることで開かれる世界や、新たな価値・思想に出会えることに、強く惹かれたのかもしれません。」

 

-学生時代の先生は、一度大学の外の世界を見ることで、津田塾の価値を発見します。

「実は、入学したばかりの頃は、いわゆる『真面目な学生』ではなかったんです。どちらかというと、大学の外に関心がありましたね。1年生と2年生の長期休暇の時期に、中学時代の友人の紹介で、とある会社で働かせてもらう機会があったんです。実際に会社の制服を着て、お茶出しやコピー取りといった仕事をしました。そのとき、人生で初めてお給料をもらったんです。社会人がどういった生活を送っているのかを垣間見ることができたし、大学では決してできない経験もできたので、とても楽しかった記憶があります。」

「けれど、当時は企業で働いている女性が今よりもはるかに少なかったのです。それに、ほとんどの女性が20代後半になると、結婚や出産を理由に離職してしまう姿を目の当たりにしました。『大学を卒業したら企業に就職しようかな』と、それまでは漠然と思っていました。しかし、当時の社会の現実を見て、『40代、50代、60代になってから花開くような、時間はかかるけれども、キャリアを積み重ねて何かを成し遂げるような仕事に就きたい』と考えるようになりました。」

「そして津田塾に戻って、様々な年代の女性が働いていることの大切さに気づいたんです。津田塾の中には、自分より少し年上くらいで子育てをしている先生もいれば、60代くらいの威厳のある美しい先生もいました。そんな『学問をしている女性』が、たくさんいたのです。職員の方にも、教務課や学生生活課の課長といったように、管理職の女性がいました。そうやって、外の世界を見てから津田塾に目を向けることで、女性が中心となって働いているというのは、とてもすごいことなんだと実感しました。」
 

学問の面白さに目覚める

-その後、先生は津田塾大学で、研究者という道を見出していきます。


「私が学部生だった頃、アメリカ研究のコースに進む学生は、2年生の後期に講読の授業を取らないといけなかったんです。そこでラッセルの『アメリカ論』を丁寧に読み始め、アメリカについて考える面白さに気づきました。そして、自分が今すごく面白いと思っているアメリカ研究を究めて、大学という場で教えるというキャリアの可能性について考えるようになりました。」


-そのころ受けていた授業には、強く印象に残るものがたくさんあるそうです。

「アメリカに関する授業やゼミは、どんな内容だったか今でもはっきりと覚えています。例えば、マーク・トウェインなどの自伝を読んで『アメリカ人らしさ』とは何かを考えるゼミに入ったり、移民史や南部史、アメリカ国内の大衆文化について学んだりしました。それ以外にも、アメリカ演劇やアメリカ文学史の授業も受けましたね。テキストを読んで自分なりに考えたり、先生にコメントしたり、時には先生の意見にチャレンジしたりしました。学生の頃は思考がすごくしなやかで、その時にやりとりしたことは、生きていく基盤になるんですね。この時期に経験したものは、一生の財産になると思います。」
 


-髙橋先生が考えるアメリカの魅力は何でしょうか。

「やはり、新しいものや価値を生み出そうとするバイタリティに溢れているところですね。アメリカは人工的に作られた国で、人の評価は出自ではなく『その人自身が何をできるか』で問われます。だから、何かを成し遂げる、失敗しても新しい何かを生み出していこうとするエネルギーに満ち溢れています。とりわけ、私はアメリカの女性に関心を持ちました。世界中に影響を及ぼすアメリカの中で、女性がどんな風に歴史の推進力になったのか、歴史の中でどのような役割を果たしたのかを可視化したいと思いました。」


 

研究対象として津田梅子を見る

-大学を卒業後、高橋先生は留学先のアメリカで、現在のライフワークの一つである津田梅子の研究を始めることになります。

「きっかけは、留学先のカンザス大学で博士論文を書いた時でした。学部生の時からアメリカに長期留学したいと考えていたので、カンザス大学の大学院に進み、子どもの歴史やアメリカの女子大学の研究をしていました。ちょうど私が博士課程にいた1984年に、津田塾大学の屋根裏から津田梅子の書簡が発見されたのです。津田梅子はアメリカで育ち、アメリカの女子大学であるブリンマー大学で学んでいます。さらに、アメリカ女性史でもよく研究されているM・ケアリ・トマスという人とも接点がありました。そういった人と接して女子英学塾(現:津田塾大学)を建学した津田梅子を、アメリカ社会史の視点から捉えたら面白いのではないかと思い、博士論文のテーマにしました。」


-研究のために津田梅子の肉筆を実際に読んで、どのようなことを感じましたか。

 「まず、津田梅子の手紙を直接読めるということ自体に非常にワクワクしたのを覚えています。私が読んだ書簡は、津田梅子が17歳から30代くらいにかけて、アメリカに住んでいた育ての親に宛てて書いたものでした。書簡は主に、ちょうど当時の自分より少し年下くらいの、とても多感な時期に書かれています。その中に書かれた、アメリカの親に伝えずにはおれなかった苦悩や孤独との葛藤、それを乗り越えて道を切り拓いていこうと前進する力に、胸を打たれました。」

「ただ、津田梅子のことを美化してしまうと、研究にならないと私は思っています。研究には誰もがものすごい時間をかけるので、知らず知らずのうちに対象に感情移入してしまうものです。でも、批判的に突き放して捉える視点がないと、津田梅子は歴史的な人物として評価されなくなります。一方、学長として語る時は、創立者、学校の運営に関わっていた人物として、大学のために津田梅子を語っています。だから、研究者として語る時と、学長として語る時は、スタンスが全く違いますね。」
 
 
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自分の道を切り拓いて

-津田塾大学で学び、津田梅子の研究者となり、そして現在は津田塾大学の学長である高橋先生。先生にとって、津田塾大学とはどんな存在なのでしょうか。

「これまでを振り返ってみると、津田塾大学は私の原点だと言えます。津田梅子の研究がライフワークになっていますし、今研究しているアメリカ社会史と出会ったのも、大学でのキャリアを目指そうと思うきっかけになったのも、津田塾大学の影響でした。」

「大学生時代は、自分の方向性を決める重要な時間です。その大切な時期に、津田塾大学では、授業やサークルはもちろん、大小さまざまなプロジェクトやイベントを、女性が中心となって進めることができます。そうやって、女性がセンターに立って物事を進めていくことで得られる自信は、大人になってからも積極的なインパクトを与え続けてくれていると思います。」


-最後に、先生の後輩でもある津田塾生へのメッセージをいただきました。


「ホームページなどでも言っていますが、津田塾大学の学生には “Make a Difference”、つまり、自分自身でしっかりと考えて、これまでと異なる新しい流れを生み出す人になってもらいたいです。常に何かのリーダーにならなければいけない、というわけではありません。ただ、どのような場面にあってもその人の主体的な行動によってプラスのものを生み出せるような人間になって、卒業後に社会で活躍してもらいたいです。津田塾大学の卒業生の中には、歴史的に著名な方も多いですが、そうでなくても、それぞれの分野で自分の道を切り拓いた人がたくさんいます。だから今の津田塾生には、自分の道を切り拓いた卒業生がいること、そして、自分たちも道を切り拓いて次の世代につないでいく責任があるということを伝えるのが、私の仕事の一つだと思っています。」